壱岐の歴史抄録 

 
壱岐の歴史の大略を通史的に紹介してもらえないか、又、壱岐が長崎県
に所属した歴史的背景などの説明を、という要望などがありましたので、
努力してみます。


 玄界灘の浮島、壱岐の島は面積約138平方qの小さ島ですが、かって
は大陸文化の運ばれた街道であり、また、外敵の侵略を受けた受難の地に
もなりました。
 島のあちこちに、その歴史を語る遺跡が数多く見られ、正に歴史の宝庫
と言えます。
 
 ここでは、元寇後、壱岐に松浦党が進出し、激しい覇権争いの結果、
平戸松浦党(藩)の領地になって行く過程を重点的に記述します。

 なお、今後、歴史年表と共に全体的に充実していき、壱岐の歴史の理解
に一層役立つようにしていきたいと思っています。

原始・古代
 
壱岐の島は、多くの種類の化石が発見され、火山活動を含め、想像でき
ないほどの地殻変動をしてきたことが分かります。特に、壱岐の生い立ち
をたどる手がかりは、コイ科(イキウス)の化石と象(ステゴドン)の化
石、それに玄武岩(火山岩)といわれています。
 今から
数万年程前、日本全土に火山活動が盛んになり、この火山活動に
よって壱岐の島も形成されました。なお、この火山活動の終わり頃、日本
列島が大陸から分離し、壱岐も周りを海に囲まれました。
 
 壱岐にも人間が住みつき、土器のなかった
先土器時代に、打製石器を使
って生活していた
旧石器時代の遺跡があります。
 
 
縄文時代の遺跡は、鎌崎かまさき名切なきり松崎まつざきなど海岸部分で
発見されています。
 
 
弥生時代になると、壱岐は『魏志倭人伝』に「一大(支)国」として登
場し、大陸と日本との架け橋として重要な役割を果たすようにようになり
ます。この「一支国」の王都が「
原の辻はるのつじ遺跡」で、倭人伝に出て
くる国の中で、その王都が判ったのは、ここが初めです。
 「原の辻遺跡」は、紀元前3世紀から紀元4世紀頃までの遺跡で、外・
中・内の三重以上の濠
ほりに囲まれています。南北約850m、東西約350m
のだ円形の環濠
かんごう集落です。その中から、多くの遺物が出土していま
す。
 この他に、弥生遺跡としては
カラカミ遺跡天ケ原あまがはら遺跡など数
多く分布しています。
 
 3世紀末から7世紀の
古墳時代になると、この頃の豪族によって、次々
に古墳が造られました。江戸時代の記録には338基とあり、最近の調査
結果でも256基あり、これは長崎県全体の約6割を占めています。円墳
が主なものですが、中には県下一位の前方後円墳もあります。出土品には
貴重な遺物があり、当時は豪族が多く、島全体が大いに繁栄していたこと
を示してくれています。
 その繁栄の基になったのは、壱岐が大陸と日本との接点に位置していた
からです。『魏志倭人伝』にも「一大国は南北に貿易している」とあり、
国の使節団の遣新羅使・遣隋使・遣唐使など寄港地となり、大陸の最新の
文化を取りいれていました。
 しかし、国境の島ということは、壱岐の人達に大きな試練と苦難も強い
られました。
 

 6世紀末、飛鳥地方に都がおかれたころ(飛鳥時代)には、中央・地方
の政治制度(奈良・平安時代も)も整い始め、701年の大化の改新によ
って中央集権の律令制度が確立し、壱岐は大宰府の管轄下に入りました。
そして、
国司郡司がおかれました。
 663年、百済と日本の連合軍は、新羅と唐の連合軍に白村江で戦って
大敗し、日本は朝鮮半島から引き揚げました。そこで、翌664年、大和
朝廷は対馬・壱岐・筑紫などに
とぶひ防人をおいています。
 
 
奈良時代(710年〜)になると、聖武天皇の命により、全国に国分寺
が建立されましたが、壱岐では
壱岐直あたえの氏寺(744年)があてられ
ました。このころ、遣新羅使の雪連宅満
ゆきのむらじやかまろが壱岐で病死し
ました。
 
 
平安時代(794年〜)に都では貴族達が栄華を極めた生活をしていま
したが、9世紀末頃から、壱岐・対馬をはじめ、北部九州へ新羅人や正体
不明の海賊の侵入が頻発しました。特に、1019年、中国北東部の
刀伊
の賊が壱岐に襲来し、壱岐守いきのかみ藤原理忠まさただをはじめ、多くの島
民を殺戮し、建物を焼却しました。なお、奴隷として連れ去られた人もい
ました。

中 世
 
鎌倉時代(1192年〜)になり、幕府は守護・地頭をおき、地方を治
めました。壱岐国の守護には
武藤むとう(のち、少弐しょうに資能すけよし
任じられました。以後、鎌倉時代を通じて少弐氏が壱岐を支配していたと
みられています。
 この時代に、有史以来の国難の元寇の脅威に曝されました。
文永の役
1274年)には守護代の
平景隆たいらのかげたか弘安の役(1281年)
では同じく
少弐資時しょうにすけときの指揮下の守備隊が果敢に戦いましたが
衆寡敵せず全滅し、元寇は壱岐に大きな傷跡を残しました。
 元寇の後、幕府の態度を嫌った壱岐の人達は共に苦労した松浦党を受け
入れ、その中では、先ず、永仁元年(1293年)、唐津・岸岳
きしだけ
波多宗無はたそうむが亀丘城かめのおのじょう(亀尾城)を造り、石志いしし
志佐
しさ・佐志さし・山代やましろなどの諸氏も勢力を伸ばしていき、壱岐は
次第に松浦党の支配下に入っていきました。
 
 
室町時代(1338年〜)、全国に安国寺が造られましたが、壱岐では
海印寺
かいいんじ壱岐安国寺にあてました。
 この南北朝時代から、壱岐の主たる豪族である松浦党は朝鮮と貿易を行
いながら、朝鮮半島や中国大陸で海賊的行動(
倭寇)をとる両面を持つよ
うになりました。
 松浦党による壱岐の争奪は激しくなり、14世紀に入ると、志佐・佐志
・鴨打
かもうち・呼子よぶこ・塩津留しおつる五氏が分治していました。
 応仁の乱(1467年〜77年)後、下克上の
戦国時代になると、14
72年に肥前上松浦岸岳城主・
波多泰やすしが突如壱岐を攻め、五氏の代官
たちを湯岳
ゆたけの都城とじょうで降服させました。壱岐を領有した波多氏は
先に築いた亀丘城を修復して入り、壱岐守護と称し、一族を代官として統
治させました。
 波多氏は、泰・興
こう・盛さこうと続いていましたが、急死した盛に嗣子
がなく、家老たちは盛の弟の子(隆・重・政)を推しましたが、盛の後室
の新方が盛の娘の子の
藤堂丸とうどうまるを養子に迎えて世継ぎと決めまし
た。このため、家老派と後室派の両派に分かれ、対立することになりまし
た。
 弘治
こうじ元年(1555年)、家老側が波多家の跡目として推していた
盛の弟の子で、壱岐城代の
波多隆たかしが後室派とみられる部下の六人衆
呼ばれていた代官たちによって殺害され、翌年には隆の弟の
波多重しげし
六人衆によって討たれました。しかし、六人衆は特に罪を追及されません
でした。 
 一方、岸岳城でも抗争が広がりました。弘治元年、藤堂丸は第16代の
城主(
波多三河守親みかわのかみちかし)になりますが、家老派は反目しまし
た。後室の新方派は永録7年(1564年)家老の日高大和守
やまとのかみ
を毒殺しました。同年暮、大和守の嫡子日高甲斐守かいのかみこのむは、同
志と共に岸岳城に侵入し、城に火を放ちました。新方と藤堂丸は脱出しま
した。 
 日高甲斐守は、岸岳城を手に入れ、さらに上松浦と壱岐の乗っ取りへ動
き出しました。
 永録8年(1565年)、日高甲斐守喜は波多隆の末弟の
まさしと共に
壱岐に渡り、六人衆を攻め殺し、
波多壱岐守政を壱岐城代として岸岳城に
帰還しました。
 永録12年(1569年)、波多三河守親(藤堂丸)は竜造寺氏等の助
けを受け、岸岳城を奪回しようとしましたので、日高甲斐守は平戸の
松浦
隆信
たかのぶに援軍を頼みましたが、間に合いませんでした。波多・竜造寺
等の軍は岸岳城を落とし、日高甲斐守は壱岐へ逃げました。壱岐へ来た日
高甲斐守たちは波多壱岐守政を攻め滅ぼしました。壱岐を手に入れた日高
氏は壱岐の守護と称し、元亀
げんき元年(1570年)、日高甲斐守源喜
名を改めました。
 
 波多氏は、壱岐の奪回を試みますが、成功しませんでした。
 
 元亀2年(1571年)、日高甲斐守は平戸の松浦氏の支配下に入るこ
とを約束し、娘を人質に送りましたので、松浦隆信は二男
信実のぶざねの妻
とし、信実を壱岐城代としました。
 このころ、岸岳城を奪回した波多三河守親は、壱岐を奪回するために対
馬の宗氏に応援を頼みました。そこで、同年7月、宗対馬守の弟を主将と
する軍勢が浦海
うろみ海岸(勝本町本宮西触)に上陸しましたが、松浦・日
高の連合軍に大敗しました。この
浦海の戦いを最後に、岸岳城の波多氏と
壱岐の日高氏の争いは、終息しています。

 波多氏と日高氏の抗争は、結局、壱岐を松浦氏の領地に提供しただけと
なりました。
 
 その後、安土桃山時代(1573年〜)に朝鮮出兵があり、松浦氏は勝
本城の築造の負担などがありましたが、江戸時代を通じ、明治維新まで大
きな事変も無く、壱岐を領有し続けました。
 このような歴史的背景が、壱岐の島が福岡県・佐賀県に近接しているにも
かかわらず、長崎県に所属している遠因になっているのです。

近  世

 
安土桃山時代に、豊臣秀吉の野望により、朝鮮出兵が行われました。天
てんしょう19年(1591)、秀吉は松浦鎮信しげのぶに命じ、勝本城
風本
かざもと城・武末たけすえ城)を造らせました。文録の役(文録2・15
93)に鎮信も壱岐城代の松浦信実等と従軍しましたが、日高甲斐守は平
壌城の戦闘で部下35人と共に戦死しました。
慶長の役(慶長3・159
8)にも鎮信は従軍しました。この戦いも悲惨なものでしたが秀吉の死に
よって終わりました。この両役は壱岐の人達にとっては、悪夢のような7
年間でした。又、先に壱岐を約100年間領有していた波多氏に没落の道
を辿らせました。波多三河守が文禄の役の後、帰国するや、秀吉に朝鮮出
兵時のことを咎められ、領地を没収されました。身は徳川氏に預けられ、
筑波山麓に配流されました。彼の最期の様子、墓地等も不明とのことで
す。(佐賀の北波多村の奥深いところに波多氏の荒廃した菩提寺の寺跡に
は小堂があり、五輪塔・板碑
いたびなど残されているということです。)
松浦鎮信の時代には、大きな歴史の流れがありました。秀吉の九州征伐、
朝鮮出兵、そして関ヶ原の戦いです。松浦氏は、これらの大事件をはじ
め、諸々の難題を切りぬけ、幕藩体制のなかを生き残って行きます。
 
江戸時代、平戸藩による壱岐統治は、島をざい(農村)とうら(漁
村)とに分け、亀尾城
かめのおじょう城代をおき、その下に二人の郡代をつ
け、
壱岐郡石田郡を担当させました。その下に、4人の代官がつき、
24の村を6カ所ずつ担当させました。各村には
庄屋を置き、その下の触
ふれ(小地域)に百姓頭をつけました。漁業者は、郷ノ浦・渡良わたら浦・
湯ノ本浦・勝本浦・芦辺浦・八幡浦・印通寺
いんどうじ浦の八つの浦に集
め、浦に
浜使はまづかいを置き、郷ノ浦には各浦を支配する浦役が置かれま
した。浦役は代官と共に郡代に所属しました。浜使の下には、浦人の中か
ら選ばれた
浦役人がいました。それぞれの浦には浦請海うらうけうみ(漁区)
がありました。 農村には
地割り制度がありました。この制度は村内の田
畑を共有とし、労働力に応じて分配しました。また、田地の売買や新しく
宅地にしたりすることは禁じられていましたので、山地や原野に宅地を造
成していきましたので、壱岐の農村は
散村形態となっています。屋敷の前
畑(菜畑なばたけ)と宅地と
背戸山せどんやま(防風林)の私有は認められ
ました。
 朝鮮と日本との国交が回復し、
朝鮮通信使が慶長12年(1607)か
ら文化8年(1811)まで、12回来ています。案内は、対馬藩が行
い、沿道の諸大名に接待と送迎の役目が課せられました。壱岐での接待は
平戸藩が勝本で行いました。この接待には多額の出費が要りましたので、
文化8年に対馬で国書を交換し、これが最後の通信使となりました。
 宝永6年(1709)、六代将軍家宣
いえのぶの時、巡見使の制度がつく
られました。これは、地方の実態を調べ、幕府の威信を浸透させるのが目
的でした。この一行の中に、俳人
河合曾良かわいそらが加わっていました。
宝永7年5月7日、郷ノ浦に上陸しましたが、病に倒れ、5月22日、勝
本の中藤家で亡くなりました。62歳でした。
 幕末期の壱岐は、異国船に対する警備に追われましたが、攻撃を受ける
ことなく明治時代を迎えました。
 明治4年(1871)に廃藩置県が行われ、壱岐は平戸県となりましたが、
11月には新しく長崎県が成立し、
壱岐は長崎県に所属しました。
(翌年、対馬も長崎県へ合併されました。)
 
     
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