国指定史跡 原の辻遺跡(はるのつじ)

九州北部三県姉妹遺跡締結記念長崎県教委発行パンフレットより

     
九州北部三県姉妹遺跡(しまいいせき)

 
長崎県「原の辻遺跡」・佐賀県「吉野ケ里(よしのがり)遺跡」・福
岡県「
平塚川添(ひらつかかわぞえ)遺跡」の三つの遺跡が、1999
年に姉妹になりました。
 三県の知事が約束したのです。(1月21日福岡県飯塚市の九州三県
懇話会で。)
 都市どうしが姉妹になることはよくあります。しかし、遺跡どうしの
姉妹は、日本ではじめてです。
 過去の人びとが活動した場のあとが「遺跡」で、この三つの遺跡は、
2000年前ころの、弥生時代の大きな村あとです。遺跡のなかで、全
国的にも歴史上大切だと国が認めると、『
史跡』になります。三つとも
国の史跡(吉野ケ里は「原の辻遺跡」・「特別史跡」)です。
 姉妹になったことで、これから三県は市町村もいっしょになって親し
く結び合っていきます。


          姉妹遺跡締結記念事業

姉妹遺跡になったこと、つまり「姉妹遺跡締結」を記念して、1999
(平成11)年から2001(平成13)年の3年間にわたって、長崎、
佐賀、福岡三県で「
三遺跡交流こどもフォーラム」をひらきます。また、
三県で共同して
パンフレットを作るなど、交流を深めて行きます。

      「
こどもフォーラム」のようす
 
1999年は原の辻遺跡に、三県の小学六年生約100名が先生やお
父さんお母さんといっしよに参加して2日間ひらきました。
 活動内容は、〔
土器の復元を楽しもう〕〔壱岐・原の辻展示館見学
発掘調査隊〕〔子供会議〕〔遺跡見学〕でした。
 
2000年(第二回)は、8月3、4日の両日、吉野ヶ里遺跡で開か
れた。活動内容は、復元された
物見やぐら竪穴住居などを見学した
り、実際に
発掘体験をなども行いました。
 また、弥生時代の暮らしについて討論する「
子ども会議」で活発な意
見を出し合いました。
 
2001年は、福岡県で行われました。

         
原の辻遺跡(はるのつじ) 
          
長崎県壱岐郡芦辺町・石田町


     
           〔弥生時代の原の辻〕
 原の辻遺跡では、三重に村全体を囲む大きな濠や、東アジア最古の船
着場跡を掘り出しました。数多くの各種の道具・うつわ・アクセサリー・
動物の骨などの「遺物」や建物・濠・お墓などの「遺構」も次々にみつ
かっています。これらから、三世紀の中国の記録「
魏志倭人伝」に出て
くる「
一支(いき)」の中心の村、いわば都のようなところだったとい
うことで、「
王都(おうと)」とよんでいます。

         
弥生の村のようす
 壱岐島の東海岸の南端近くに大きく入りこんだ内海(うちめ)という湾
があり、幡鉾
(はたほこ)川が海に注いでいます。

この川が流れる平野に南からのびる低い丘を中心としたところに原の
辻遺跡はあります。丘の中央にはとくに一段高いところ(
高台)があり、
この高台は
周りを塀で囲んであり、中には床の高い建物(高床たかゆか
)がありました。中心の建物(主殿しゅでん)、お祭りをする建物(
殿)などがあり、神聖な祭りや儀式をおこなっていたとみられます。
 高台の周りには、
平屋の建物(掘立柱ほったてはしら:地面に穴を掘って、
その中に柱をすえ、土を埋めて固定した柱を掘立柱とよび、それから成
る建物をよびます)、半地下式の建物(
竪穴たてあな住居)、貯蔵穴ちょ
ぞうけつ
などがあり、区画のための溝もあります。
 丘の北西では
船着き場跡がみつかりました。内海湾にとまった大きな
船から、人や物を小船にうつし、これが幡鉾川をのぼってこの船着き場
まできたのです。


 
 
船着き場は、基礎に木や石を敷き盛り土し、横にくずれないように杭
をうって補強しています。また、盛り土の両側には大きな石や樹の皮が
張りつけてあるなど、当時の大陸の高度な土木技術をとりいれたものと
考えられます。
 丘の東では、東西方向の
(幅約4m)を6m分発掘しました。幡鉾川
の「海の道」に対して海まで約1kmの「陸の道」です。
 このほか、周りの丘には7
所の墓地もあり、どこになにを設けるかを
整然と計画していたことがわかります。

環濠


  
 北へのびる丘を大きく(東西約350m・南北約750mの範囲)か
こむ
三重の濠です。濠は、東、北、西は丘の裾をめぐり、南では丘の根
もとに続いています。村を守るための濠です。

         
高度な建築技術
 2000年前(弥生時代中期)の床の高い建物(高床建物)の部材が
みつかりました。建物の短辺にわたして先を柱にさしいれる横材(
床大
引材ゆかおおびきざい)で、建築史家は、この村から礎石の上に柱を立てた
可能性を指摘しています。

大陸から渡ってきたもの


  


 中国や朝鮮半島の遺物が沢山みつかっています。2000年前の貨幣
貨泉かせん」や「五しゅ銭」、ガラス玉(トンボ玉)、銅の剣矢尻
じり
(鏃ぞく)、、矢尻の中には横断面が三角形になるもの(三翼鏃
んよくぞく
)もあります。鋳型を作って鋳造した斧(鋳造鉄斧ちゅうぞうてっ
)や叩いて作った鍛造の斧(板状鉄斧ばんじょうてっぷ)もありますし、
朝鮮半島に中国がおいた出先機関の楽浪郡
らくろうぐん土器、朝鮮半島
南部の模様のない土器(
無文土器)やいろいろな石器も沢山みつかって
います。



   
「魏志倭人伝」の文章を証明する遺物
 魏志倭人伝は、倭つまり当時の日本の武器として「矛ほこ、たて、
木弓きゆみを用い竹の矢柄やがらに鉄や骨の矢尻をつけたりする」と書い
ています。
 そのとおり、
(長い柄に刃物をとりつけた武器)、矢や武器を防ぐ
木の
、鉄・骨・木の矢尻がみつかっていますし、矢柄にふさわしいメ
ダケもあります。
 また、
寄生虫の卵があることから魏志倭人伝に書いてある通り、生野
菜を食べていたこともわかりました。

          
戦いの道具
 鉄、青銅、木、骨の矢尻、銅の剣や石の剣、敵に向かって放り投げる
投弾などの武器や木で作ったよろい(
短甲たんこう)、木の楯など身を守
る武具もあり、弥生時代が戦いの時代だったことを示しています。

          〔
交通アクセス
    
航路                 航空
・博多港〜郷ノ浦港         ・長崎空港〜壱岐空港 35分
     ジェットフォイル 68分      壱岐空港より車で10分
     フェリー 2時間15分
  郷ノ浦港より車で15分
・博多港〜芦辺港
     ジェットフォイル 61分
     フェリー 2時間5分
  芦辺港より車で15分
・呼子〜印通寺港
     フェリー 65分
  印通寺港より車で5分


国指定特別史跡 
吉野ケ里遺跡佐賀県神崎郡三田川町・神埼町
                             ・東脊振町


   

〔吉野ヶ里が語る弥生時代〕
 吉野ヶ里遺跡は、福岡県と佐賀県のあいだを東西にはしる脊振山地か
ら南にいくつも延びる丘のひとつに位置する、約2300年から170
0年前(
弥生時代)の集落跡です。この集落を取り囲む外壕は、推定2.
5kmにも及び、日本最大規模をほこります。
 弥生時代は、
水路やそれをせきとめるせきそして畦あぜがそろった
水田稲作が本格的に行われた時代でした。吉野ヶ里も中国・朝鮮半島で
発達した農耕技術を取り入れて、3世紀の中国の史書にも紹介されてい
る邪馬台国
やまたいこくを想像させるような「国」の中心集落へと発展し
たのでしょう。
 吉野ヶ里からは、「国」の「王」クラスの有力者のお墓(北墳丘墓

たふんきゅうぼ)
が発見され、生活の場(南内郭みなみないかく)や祭りをお
こなう場(北内郭
きたないかく)、さらに大きな倉庫を数多く建てた場所
も明らかになりました。お墓に入っていた青銅の研ガラス製品からは、
高い技術がうかがえますし、稲の穂を摘っみとる石器(石包丁
いしほう
ちょう
)や石の斧、鉄の斧や鍬くわ先からは、農作業や建築の場面が想像
できます。吉野ヶ里で見つかった弥生人骨は、背が高く、顔は面長で、
大陸から渡ってきた人の子孫と考えられます。
 吉野ヶ里は、有明海を通じて九州・四国・本州だけでなく、アジアと
も直接交流があったことがうかがえます。

銅鐸


  
 1998(平成10)年11年17日、
九州で初めて銅鐸どうたくが見つかり
ました。銅鐸は、近畿を中心に中国・四国から中部ちほうにかけて発見
されていたため、銅鐸を使ったまつりもその範囲で行われていたと考え
られていました。しかし、最近では佐賀県や福岡県でも銅鐸の鋳型が見
つかっており、しかも銅鐸そのものが吉野ヶ里から見つかったことで、
大きな話題となりました。

       〔
吉野ヶ里の高床倉庫群
 吉野ヶ里の丘の西から、
掘立柱建物や半地下式の竪穴住居跡が数多く
見つかりました。米や武器などを「国」が蓄えた場所と思われます。


       
 

         『吉野ヶ里歴史公園』
   2001(平成13)年に一部開園!

 吉野ヶ里を保存し、活用するために国と佐賀県が一体となって、歴史
公園を整備しています.この公園は、「弥生人の声が聞こえる」を基本
テーマに、建物を復元したり、手で触れる展示品を備えることで、弥生
時代を体で感じることができることを目指しています.

           
 入り口ゾーン
 情報コーナーでは、公園の総合案内、遺跡の特徴などについて手軽に
情報を受けることができます。また、レクチャーホールでは、大型映像
によって遺跡や公園のことを学ぶことができます。

            
環濠集落ゾーン
 北内郭とよばれる二重の環壕に囲まれたところは、「王」などの有力
者の政治やまつりの場と考えられており、ここにあった建物を復元しま
す。

            
古代の原ゾーン
 公園の西側部分は、水田や弥生の草地を再現し、自由にのびのびと遊
び、楽しめる場所です。

           〔
交通アクセス
JR長崎本線                 自動車
 
・鳥栖駅〜吉野ヶ里駅 約14分    ・長崎自動車道
     
〜神崎駅   約17分      東脊振インターより
 
・佐賀駅〜神崎駅   約9分       約4q 車で約5分
     
〜吉野ヶ里公園駅約12分   ・佐賀空港より
 ・神崎駅・吉野ヶ里公園駅より1.5km    約23km 車で約40分
           徒歩約20分


    国指定史跡 
平塚川添遺跡 福岡県甘木市


     


 平塚川添遺跡は、九州横断高速道路わ使って長崎県や佐賀県から大分
県へ向かう土中ノ途中の、甘木インターチェンジ(高速道路の出入り口)
南側にあります。
 ここから古処
こしょ山をはじめとする筑前朝倉の山々が北に見え、南西
には筑後川の流れる広大な平野が広がっています。北東の奥には英彦
ひこ
山も見えます。

         
平塚川添の時代     
 発掘調査で発見された土器から、この村は、今から約2000年前
(弥生時代の中頃)に出来て、だんだん大きくなり、約1700年前
(弥生時代の終わり頃)までさかえていたことかがわかりました。約
300ねんにわたって営まれた村で、最盛期には200人〜300人の
人々が住んでいたようです.
 この村が栄えていた時代は、米づくりが広がり、鉄の道具が増え、い
くつもの村がまとまって「国」が出来た頃で、当時の日本のことを記録
した中国の史書に「倭国乱
わこくみだる」の記事や「邪馬台国」「卑弥呼」
などの記述が登場する
西暦2〜3世紀のころです。

         〔
環濠と集落の様子
 この村は、安定した台地の上にではなく、低地にあります。大雨が降
れば床上浸水しそうなところです。村の中心部(約2
ヘクタール)だけは
まわりより少し高まったところにあり、小石混じりの土地を掘って
重の濠
をめぐらせています。これらの環濠には自然に水がたまり、大雨
の時には排水にも使われたでしょう。
 弥生時代の「国」の中心の村や「国」を支えるような村では、外敵から
村を守ったり、重要な建物や施設を他と区別するために環濠を掘りました。
この村でも南西方面、つまり筑後地方(福岡県南西部)に向かっては、村
を守るために大きな外濠を掘り、少なくとも2重の柵を作っています。ま
た、大切な
米倉(穀物倉庫)も環濠で囲んでいます。
 これらは「村」から「国」へと統合が進む弥生時代の村々の軍事的緊張
を示しているようです。

           
まわりの遺跡
 
低地の平川川添村(約15ヘクタール のすぐ東の台地(福田台地)の
上には、これまでの発掘調査によって、約2000年前から1500年前
(弥生時代〜古墳時代)の
村や墓地の跡がたくさんみつかりました。平塚
川添村の人々のお墓もこの台地上にあったでしょうし、当時同じ「国」の
仲間の村もいくつかあったようです。

            
村の特徴
 
この村のもう一つ特徴は、3重の環濠の外側に、米倉工房こうぼう(木
器や石器づくりの作業場)などのまとまりがあることです。村の中で、

割の分担
(分業)や住む場所の区分があったようです。
 また村の真ん中と北東隅に、大きな
掘立柱建物(穴を掘って柱を立てた
建物)の跡がありました。
 真ん中ののものは床の高い建物(
高床建物たかゆかたてもの)が平行して2
棟並び、それらの近くには普通の半地下式住居(竪穴住居)がなくて広場
(庭)になっているので、神を祭る「
神殿」かと思います。
 北東隅のものは、大きな平屋(
平地式建物)のようで、この村の有力者
(今の市長・町長のような者)の使う公的な建物かと思います。彼(彼女)
の寝起きした家はこの建物のすぐ横にある大きな半地下式住居(
竪穴住居
ではないでしょうか。

          〔
見つかった遺物
 家のあとからは、煮炊きや貯えに使う
カメツボ(壷)、ツボを乗せる
台(
器台きだい)、食物を盛る高杯たかつきわんなど日常生活で使う土器
がたくさん見つかっています。
 また、柱の穴の中や環濠の中からは、農具(
),川漁に使う漁具
手網たもの枠わく)、建築部材(柱受け・ネズミが米倉に入れないよ
うに倉の高い床と柱の間に取り付ける
円盤状の板)などの木製品がたくさ
ん見つかりました。丘の上ではなく、低地の水辺に立地した村あとである
からこそ、これらの木製品は水につかって空気に触れないまま、良い状態
で残っていました.
 環濠の中には様々な草や木の
花粉木の葉、どんぐりなどの植物も残っ
ていました.アシ・ノブドウ・ヨモギ・セリ・ハンノキ・イチイガシ・ク
ス・ツブラジイ・コナラ・ヤマモモ・スギ・エノキなどです。現地には今
これらの情報をにもとづいて「
弥生の森」を復元しています。
 当時貴重なものだった青銅(銅と鈴の合金)製品は、
矢尻、中
国の貨幣「
貨泉」などが見つかりました.裏面に内行花文ないこうかもん(花
弁を内側に向けた文様)を持つ
鏡片や「貨泉」などは西暦1〜2世紀の中
国で作られたものです。おそらく朝鮮(韓)半島から対馬〜壱岐を経て平
塚川添の村にとどいたのでしょう。あるいは直接中国から筑後川をさかの
ぼって来たのかも知れません。
また、村の範囲からは、有力者の墓や大きな墓地はありませんでしたが、
村の西部にお墓(
カメ棺墓かんぼ・石棺墓せっかんぼ・木棺墓もっかんぼ)があり、
その内に碧玉
へきぎょく(緑石みどりいし)製の玉(管玉くだたま)や青いガラ
スの小玉(
びーず玉)が入っていました。これらの出土遺物は甘木歴史資
料館で見ることができます。

         〔
平塚川添遺跡公園


 平塚川添では、1996(平成8)年から歴史=自然公園を作り始め、
2001(平成13)年春の開園を予定しています.現在すでに復元建物
水の入った環濠などが姿を見せ始めましたし、ガイダンス体験学習館も
出来上がりました。先に述べた「
弥生の森」や環濠の水辺には様々な鳥や
虫も暮らし始めたようです。環濠にはガマやヨシが生えつつあり、地元の
小学生が放流したニホンメダカも増えはじめています。春にはヒバリがさ
かんに鳴くようになりました。
 遺跡や自然の見学・学習だけでなく、いろんな作業・交流・遊びを通し
て、みんなで未来を展望することのできるような公園にしていきたいと思
います。

          〔
交通アクセス
鉄道               自動車・バス
・甘木鉄道            ・福岡空港〜甘木インター 
  基山〜甘木 約30分       約40q 車で約40分
・西鉄甘木線           ・大分自動車道甘木インターより
  久留米〜甘木 約40分       車で約5分 徒歩で約10分
  甘木駅より 車で約10分    
・国道386号甘木バス停より
  西鉄上浦駅より徒歩約15分     車で約10分

     
       原の辻遺跡

 
原の辻遺跡1  原の辻遺跡新情報1  シンボルマーク等 

 
原の辻遺跡新情報2