原の辻遺跡新情報1(12年度) 

平成12年(2000)以降に、発掘・発見された遺物等や発表された
情報を紹介します。

捕鯨線刻絵画土器・竜の文様を描いた器台
  平成12年(2000)5月24日発表


  
 線刻画土器      


  
イラスト図

 原の辻遺跡調査事務所は、これまで発掘した紀元前一世紀ごろ(弥生時
代中期後半)の土器に、「
もりを打ち込まれたクジラや船」の線刻絵画が
描かれていたと発表しました。
 捕鯨の線刻は、郷ノ浦町有安触にある装飾古墳の鬼屋窪
(おにやくぼ)
墳にあり、日本で描かれた捕鯨図としては、最も古い部類の貴重なものと
されていましたが、これは
弥生時代のものとしては全国初の発見で、捕鯨
が弥生時代中期(二千百年ほど前)まで約七百年もさかのぼることを証明
するものです。


 
鼓形 の 器台

 
昨年度、環濠などの調査で、芦辺町深江鶴亀(つるき)触八反(はったん)
から出土した遺物の整理中に、「の省略した文様がある器台が発見さ
れました。(財)ユネスコ・アジア文化センター文化遺産保護協力事業所
研修事業部・工楽善通
(くらくよしゆき)部長によると、この器台は鼓形で高
さ8.7センチ、口径9.2センチ、紀元一世紀ごろ(弥生時代後期前半)のも
ので、各地で発見されている線刻絵画土器のうち、特に岡山県上東
(じょう
とう)
遺跡で出土した土器に類似しており、線刻の大きさは長さ4.2センチ
幅3.3センチです。

 原の辻遺跡で線刻が発見されたのは初めてであったため、過去に出土の
遺物を詳細に点検調査が行われ、昭和49年度に実施した緊急発掘調査に
より石田町石田西触大原
(おおばる)の墓域で出土した子ども用とみられる
甕棺の壷に「クジラと船」の線刻絵画があることが確認されました。
 国立歴史民俗博物館・佐原眞館長によると、この壷は甕と壷を組み合わ
せた三連式の下部のもので、胴上部に二箇所、口縁部内面に線刻が認めら
れます。
 
 器台に描かれた竜は
想像上の動物であり、中国では古来より瑞獣(ずいじ
ゅう・めでたい動物)
として神聖視されてきました。この竜の線刻画も呪術的な
要素を表すもので、祭儀などに用いられたものと考えられ、精神的な文化
の大陸からの流入を示すものとして貴重なものです。

 原の辻遺跡と同じの弥生時代のカラカミ遺跡からも、多くのクジラやシ
ャチの骨格や肋骨で作った骨銛
もりなどの骨角器が出土していますが、今
回確認された線刻画によって漁法や造船の技術が発達していたこと証明し
ています。

   日本最古の鉄製金づち・日本初出土の車軸頭
 
鍛冶工房の存在を裏付け 平成12年(2000)7月6日発表



 長崎県教委の原の辻遺跡調査事務所は、日本最古とみられる鉄製金づち
の頭部が出土した、と発表しました。
 鉄製金づちは、これまで五世紀(古墳時代中期)の猫塚古墳(奈良)や
福岡県甘木の墓の中からのものが上限とされていましたが、この頭部は紀
元一〜四世紀(弥生時代後期から古墳時代前期)の旧河道の層から出土し
ており、少なくとも二世紀はさかのぼりそうだということです。
 金づちの頭部は長さ七センチ、厚さ三・七センチ、重さ二百三十一グラ
ム。木の柄を差し込む四角い穴があいています。
 同じ場所から鍛造鉄製品の素材となる板状鉄斧(てっぷ)、鉄斧、鉄鑿
(のみ)など多くの鉄製品が発見されました。金づちは鍛冶具(かじぐ)
でもあり、鍛冶工房があったことを示す可能性があり、壱岐に無い鉄を、
インゴット(鋳塊・製錬溶融した金属を鋳型で固まらせたもの)の形にし
て隣国などから運び込み、ここで必要な鉄製品をこしらえていたのではな
いかと推測できます。
 また、紀元前一〜紀元二世紀(弥生時代中〜後期)の土器溜からは、青
銅製の車軸頭と考えられる馬車具の一部らしき物が出土しました。これは
中国の漢代(紀元前二0二〜紀元二二0)の楽浪郡(現在の朝鮮民主主義
人民共和国の平壌市付近)でつくられたもので、大きさは高さ二・一セン
チ、胴最大径三・七センチ、現存重量二十四グラムのミニチュアの馬車の
車軸頭(日本で初例)と考えられることから、宝器として使用されたもの
と思われます。
 これらは朝鮮半島との交易によりもたらされたものと考えられ、弥生時
代の人々の暮らしは想像以上に豊かでなかったかと思われると共に、原の
辻が交流拠点としての重要性を改めて証明することになっています。


    
中国「新」の貨幣「大泉五十」出土
    紀元七年初鋳 弥生時代遺跡では日本初 
            平成12年(2000)8月21日発表


 
「大泉たいせん五十」は、青銅製の貨幣。径27.65ミリ×28.15ミリ、厚さ
2.45ミリ、重さ5.5グラム。中央に方形の孔があけられ、方孔の上に
「大」、下に「泉」、右に「五」、左に「十」の字が鋳られています。
 出土場所は、芦辺町鶴亀触の台地西側で、水田が広がる低地を調査中に
発見されました。出土位置は、弥生時代の環濠よりやや外れています。耕
作の影響で、どの時代の地層に含まれていたかは特定できないということ
です。
 「大泉五十」の出土は、国内二例目ですが、一例は福岡市の鴻館跡の
調査で十世紀後半の土こう(墓穴)から出土しています。
 今回の「大泉五十」の出土により、中国の古代貨幣が三種類揃つたこと
は日本では初めての事例で、これまで出土した朝鮮半島系土器や貴金属
器、装身具類とともに、「原の辻」が大陸との交流拠点だったことを証明
する重要な資料といえます。



 
     
原の辻展示館 開館より5年7カ月で
        
入館者50万人達成 (2000.12.2)

 原の辻遺跡展示館の入館者が、平成7年(1955年)4月28日開館
以来約五年半、平成12年11月27日に50万人に達しました。
 50万人目の入館者は佐賀県神崎郡三瀬村中村の柴田明寿さん(63)
で、同級生の夫婦三組で、毎年旅行を楽しんでおられますが、今回もその
グループでの壱岐旅行の途中で原の辻遺跡展示館を訪ねられたものです。
 同展示館では、大皿川惠原の辻遺跡保存等協議会長(壱岐郡町村会長・
芦辺町長)が直接、柴田さんに記念証と掛け時計などの記念品を贈りまし
た。
 同遺跡保存等協議会事務局の岩永勲さん(芦辺町教育次長)は、「吉野
ケ里遺跡のように、目玉になるシンボルのようなものが欲しいですね。目
に見えて、観光客に訴える力がないと。発掘もまだ
遺跡全体の5%しか終
わっていませんし,土地の公有化もこれからです。どんどん進めなくては
と痛感しています。」と語っておられます。

 原の辻遺跡は、弥生時代の多重濠集落跡で、外・中・内濠が集落の周り
を東西約350m、南北約750mの範囲に、楕円形状に分布していま
す。
全体の遺跡100haの内、芦辺町側約12.47ha、石田町側約
3.68haの合計
16.15haが指定区域です。

    
         原の辻遺跡

  
原の辻遺跡1    原の辻遺跡2    シンボルマーク等

  
原の辻新情報2