国分〜亀石周辺 4 

風土記の丘(ふどきのおか)
勝本町布気触)

     (古民家園前の説明板より)

 勝本町の亀石付近には古墳が集中しています。
 
 壱岐風土記の丘は、掛木(かけぎ)古墳百合畑(ゆりはた)古墳群
笹塚(ささづか)古墳生池(なまいけ)城跡と、さらに古民家を移築復
元したものです。
 
 およそ、1300年から1500年前の先人の生活文化を探求し、私ど
も日本人のルーツを解明しようとするものです。
 また、壱岐で出土した考古資料や地方の風土、文化、慣習など生活用
具、農耕具等を展示しています。
 豊富な歴史的背景を想像しながら、緑豊かな自然環境の中に、日本民族
の夢とロマンをさぐってもらうことを願ってつくられた丘です。

生池
勝本町百合畑触)


 近世までは、3間四方(約畳18枚)あったということですが、今は埋
まっており、水神を祭ってあります。水神社(みずのじんしゃ・布気触)
の境外末社(けいがいまっしゃ)になっています。

 生池ついて、
壱岐名勝図誌(江戸時代刊)には「此池、近世まて
ハ三間方在りしありしといへとも、今ハうつまりて名のみとなりぬ。大松
其中にあり。水神祭場なり。むかし川童子人を生とりせしとなむ。よて生
池といへるとそ。」と書かれています。

 生池の名前の由来については、「河童(カッパ)が人間を生け捕りにし
たから」と説明しています。勝本町の説明には、「生首をたくさん投げ込
んで埋めたので、生首の池、から」という二つの説があるとしています。

生池城跡
(勝本町百合畑触城山)

 
地元の人達が、「城山・じょうやま」と呼んでいる所にあります。

 
別名「牛ケ城」ともいわれていました。現在は木々に覆われているので
城跡全体を見ることはできませんが,道路からでも堀があったことや生池
から山頂に向けて道筋ができているのが確認でき、生池から、この道の上
を水が運ばれたことが想像できます。



 中に入って探索してみると、山腹の傾斜地に環状に二重の空堀があり
ます。このような城は壱岐では唯一つといわれています。
 堀は土を内側(左手)に揚げて高くして、写真の左上隅まであり、底
に立って見上げると勾配は急で、木が無ければ登れないと思いました。
 この上に柵を廻らしていたのでしょうか。
 この内側の山頂部は平坦になっていますので、城郭の跡と思います。

 
壱岐名勝図誌」に、「此城、何れの代、誰人の築けるといふ事詳なら
す。唯敵にかこまれ、用水尽て赤井
(牛イ)を集め精米をあみせて、水あ
りしと見せし故に、牛か城と名附けしと云伝ふるのみ
云々。・・四方低く
中高く、二重堀にして四方に門跡あり。・・内堀広五間四尺五寸、深さ
三間余、周囲弐町三十八間半、外堀広三間弐寸、周囲二町五十間。・・」
とあり、一間は約1.8m・一町は60間で約109m、その規模
が想像できます。

 
勝本町教委の説明によると、初め倭寇で後正式の貿易が認められ
松浦党源壱(みなもとのいち)の居城だったということです。
 
 この城跡に来て、なぜ、このような山間の辺鄙な場所に城を造った
のか、と考えながら周りを一巡すると、山頂の一部だけが島の中央部
の国分方面に平坦な道路で繋がり、他の部分は傾斜面で、海(湯ノ本
湾)側の山裾の大部分は、谷、川、池、沼地が多かったと思います。
 その外側は深い山に囲まれ、海から上陸してきた敵からも発見され
にくく、この城跡で当時の
山城の構造・立地条件が分かります。

笹塚古墳(ささづか)
(勝本町百合畑触)

 国分の鬼の窟に比べると、山間の谷間にあり、小型だなという気がして
いましたが、ここの出土品の中に、超弩級の考古資料がありました。

        
         
 3月5日の
朝日新聞の一面中央部に、「壱岐の飾り金具と明日香の石製
水槽」『亀型そっくり』「大和朝廷とのつながり?」というタイトルで二
枚の写真(笹塚古墳から出た金銅製の亀形飾り金具=長崎県勝本町役場・
奈良県明日香村で出土した石製の亀型水槽)付き記事が載りました。

 わたしのHP(2月23日作成)の「古墳の分布」の中で、「壱岐に多
くの古墳がつくられたのは、大和政権の強力な援助があったと考えられ、
特に金銅製の馬具類が出土…」、また、「
笹塚古墳」の中では,「世界に
類のない亀形金具」と載せておきましたが、朝日新聞の記事では、「研究
者らは笹塚古墳の出土品から大和朝廷と壱岐とが深いつながりがあったこ
とを示すものとして注目している」と報じています。

 この亀型飾り金具は1989年に出土、町で保管されています。
 長さ約8cmで、甲羅に渦巻き文が施してあり、羽のような手足を持
っています。明日香村の石製水槽は約1.6mあるそうです。

双六古墳(そうろく) ※所在地の小字名が「そうろく
(勝本町立石東触)

 『壱岐名勝図誌』(1861)に、「双六窟 二塚の坤にあり、立
石村私記伝、双六鬼屋大壱つ、入口より奥まで長五間三尺とあれとも、
今量みるに入六間半ね奥の間一丈三尺、横八尺五寸あり。」

・平成四年(1997)に、長崎県教育委員会が「
県内古墳詳細調
」を行い、この古墳が県内一の規模であることが判りました。 


       
墳丘部とくびれ部

 平成13年3月10日の朝日新聞の一面に「藤ノ木古墳並みの『お宝』
?」「壱岐・
双六古墳副葬品が出土」、3月11日の地元紙の壱岐日報
は「6世紀後半の規模九州第2」「大和政権や新羅との深い関係示す出
土品」「勝本町・双六古墳発掘調査」、なお
新壱岐には「じゅん爛豪華
な副葬品出土!」
被葬者『壱岐直』か双六古墳」と載りました。

       
       
樹木を伐採した双六古墳・墳丘の南西側に羨道

 
この双六古墳は、平成9年2月4日〜12年1月31日まで、発掘調査
が行われました。

墳丘の調査
 標高111b、北東高・南西傾斜、自然地形利用、周溝無、西側墳丘裾部
削平・流れ込み、須恵器多数出土。
全長91m、後円部径43b・高さ
11b、前方部幅36b・高さ5b、くびれ部幅24b・高さ2.3b、
横穴式石室で約11bあり、羨道・前室・玄室からできています。

石室の調査
 玄室は、長さ3.50b、幅2.58b、高さ4.28b、 
 前室は、長さ6.28b、幅1.80b、高さ1.68b、 
 羨道は、長さ1.20b、幅1.28b 高さ1.70b、
 
 玄室に赤色顔料がみられたので、玄室を朱塗りの可能性があります。
 前室に松浦家の「三ツ星」と「肥前松浦郡…・」の線刻があります。
 羨道の入口の所に割られた閉塞石がみられます。

出土遺物
 
武具、馬具、装身具、土器がほとんどです。
 遺物の破片が攪乱状態になっていました。土器が約1000点、
 鉄・銅製品が約1500点、ガラス玉が100点ほどありました。
 
 なお、
九州第二の規模と確認されたということです。

 
上記三紙によりますと、

 勝本町は、双六古墳の発掘調査終了にともなう記者会見をおこない、
「この調査は平成9年から今年の2月までの3年間にわたっておこなわ
れ、
奈良県の藤ノ木古墳の出土品に匹敵する種々の副葬品が発掘された」
と発表されました。

 出土品の主なものは、透かし彫りの
金銅製飾り金具や、鳳凰を中心の
鳳環頭大刀柄頭(たんぽうかんとうたちつかがしら)、圭頭大刀柄頭
窓鍔(ゆうそうつば)、金銅製飾金具=馬具、金糸、玉(ガラス、こはく
など)、
新羅土器二彩鉄製品(鉄鏃、鉄刀、釘など)、須恵器土師
などです。
 
 なかでも、『
金銅製飾金具(馬具)は貴重とされ、さらに
糸は極めて貴重な出土品
』ということです。
 
 攪乱された後、「がらくた」として放置され、土中に埋もれていたので
すから、当初、どのようなものが埋葬されていたのか、想像を絶します。


 
上段より、一段目・短刀、2団目左より圭頭大刀柄頭・単鳳環頭大刀柄頭・二彩2点、
        3団目玉類、4団目金製品3点、金銅製品3点

 発表には、調査指導員委員会の九州大学・西谷正教授、福岡大学・小田
富士雄教授、京都造形芸術大学・中村一教授、奈良国立文化財研究所埋蔵
文化財センター・沢田正昭センター長、下条昭五勝本町長らが出席してお
こなわれて
います。

 西谷教授は、「被葬者は、『延喜式』に登場する
壱岐直(あたい)の一
族の一人
と考えられる。これだけ多様で、かつ豪華な副葬品の内容から考
えると、壱岐を治めた豪族というだけではすまされない。大和朝廷が新羅
との外交にあたり、重用していた人物の墓ということができる。」と説明
されています.

 小田教授は、「盗掘されているのに、これほどの品があったということ
は、被葬者の権勢は相当なものであったろう。出土品にはまだまだ価値が
あるものがあると思う。整理や調査を進めていくのが楽しみだ。」と話し
ておられます


 3月16日の新壱岐紙は「新壱岐譜」で、次のように紹介しています。

 「勝本町双六古墳は、その規模の大きさもさることながら、副葬品の素
晴らしさにも驚かされる。盗掘をされてすら、これほどの豪華さ。一体い
かばかりの宝物が納められていたのだろうと、あれこれ想像をふくらませ
たくなる。
 玄室でなく、土にうずもれていた前室から掘り出された品々。その見事
なまでの装飾性は、当時の技術の高さはもちろん、ここに葬られた人の権
勢の力を示している。中でも目を奪われたのは、国内数例しかないという
金糸だ。まるで、昨日まで誰かの晴れ着に縫い込まれていたのではと思わ
れるその輝き。千数百年を経て、なお、金色の光を放つこの金糸の純度の
高さがうかがえる。

 下条町長は、今議会の冒頭のあいさつで、この古墳を中心に、一帯を古
墳公園にとの考えを示したが、名案だ.宮崎県の古墳公園のように、周囲
の風景と見事にとけ合う、当時の姿をしのばれるような公園づくりを目指
して欲しい。
 中途半端な箱物を避けて、風の音、虫の音の聞けるような場所にしては
どうだろう。古墳に眠っていたはずの、大宮人をこれ以上傷つけぬよう静
かな環境のままで。」

             国分・亀石周辺探訪

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