国分〜亀石周辺2
       (国分地区の古墳)

    鬼の窟(おにのいわや)古墳
   
(芦辺町国分本村触)



 前の県道より見えるので、壱岐を代表する古墳として有名です。

 入り口に立つと、写真のように、
一辺2mを越えるような巨石が組み
立ててあり、この付近では、このような形の良い大きな石は見かけるこ
とはないので、先ず、何処から、どのような方法で運搬し、また、組み
立てたのだろうかと驚きます。

 種類としては、
円墳で、直径45m・高さ13mあり、九州では第二
位ということです。

 
横穴式石室で、羨道・前室・中室・玄室でできていて、全長は約16.
5mあり、玄室の広さは約3m四方です。

  昭和28年に調査が行われていますが、その時に、須恵器(すえき)
・土師器(はじき)・鍍金鍔金具(ときんつば)・鉄鏃(てつぞく)・
馬具・鈴などが出ています。

 
ここには、笹塚や双六古墳に匹敵するような副葬品があったのではな
いかと思われますが、私達の子供の頃から、奥の方まで開いていました。 

 鬼の窟付近には、多くの古墳があり、発掘中のもあります。調査の
すみ次第お知らせします。)



     
兵 瀬 古 墳(ひょうぜこふん)
        
(芦辺町国分本村触)

 
鬼の窟の前の県道を亀石方面に向け50メートル行くと、宮坂組の車
庫があります。その側の道を北方に約100メートル行くと、右前方に
住宅があります。その家の直ぐ東側(向う側)にあります。
(この古墳は、この住宅の武藤博進氏の所有です。もし、見学される場合は、庭を通ります
ので、ご家庭の迷惑にならないように留意して、失礼のないようにしてください。


 
壱岐名勝図誌によると、大鬼屋兵瀬鬼屋と言われ、県指定鬼の窟古墳
(笹窟、矢櫃鬼屋とも言われています)とともに図示され、大きさなど
も明記してあります。
 この古墳は県指定の鬼の窟についで、郡内で3番目に大きい古墳です。
 また、この古墳は、鬼の窟古墳からは北西200メートル余りの所に
あって、幅約7メートル余りの周壕を巡らした横穴式の円墳です。壕の
周りは約102メートル余りで、古墳は玄室と羨道に第一室、第二室が
あります。石室の全長は11メートル、玄室の天井までの高さは、
9メートル余りの形の整った古墳です。

 「壱岐国続風土記」にも、大鬼屋兵瀬、東西 28間、南北 30間、
周囲 75間余、高さ 8間1尺6寸5分と記されています。



          
国分地区古墳群
           
(芦辺町国分本村触)

 鬼の窟古墳の周辺に散在しています。
 百田頭(ひゃくたかしら)古墳・釜蓋(かまぶた)古墳・山ノ神古墳
・京塚山(きょうづかやま)古墳などです。百田頭・釜蓋は、鬼の窟の
北西部に、山ノ神は西方に、京塚山は左前方の山中にあります。

 兵瀬古墳を通り過ぎて、約100メートルほど過ぎると、左手に
百田
頭5号墳
が見えます。この周辺に他の百田頭古墳も散在しています。

 壱岐は、長崎県下で最も多くの古墳が残存している地区として知られ
ています。現在、
270余基(「かっては338基であった」と壱岐国
続風土記に記述)ある古墳の半数以上が壱岐の北部から中部に集中して
います。
 ここでいう「国分地区」とは、壱岐の中部にあたり、巨石による横穴
式石室が多く見られ、その間に小古墳が所狭しと築かれているのが特徴
です。
 代表的なものとしては、鬼の窟古墳をはじめ、上記の古墳などが丘陵
部に馬蹄状をなして築かれています。
 百田頭古墳は腰石を持ち、迫持式で小口積にした佐賀の田代太田古墳
や熊本の井寺古墳に酷似したドーム状の玄室を備え、とくに百田頭5号
古墳はこれを顕著に表しています。
 なお、百田頭5号墳には、船の線刻が描かれてあり、話題になります
が、一説では後世のものとも言われます。また、
山の神5号墳には同心
円の線刻があり、内部は朱塗りを施してあります。



   
     百田頭古墳群
      
  (芦辺町国分本村触)

●百田頭ひゃくたかしら2号墳 調査 平成13・10・25〜14・1・31)

    
兵瀬古墳の側の道を約100b行くと、左手に古墳が並んでいます。

           
 
墳丘   直経17b  高さ5.6b  円墳
両袖型横穴式石室 羨道・前室・玄室 石室全長7.6b
       ・
玄室の長さ約3.6b  幅約1.9b  高さ約2.7b
       ・
前室の長さ約2.0b  幅約1.3b  高さ約1.3b
       ・
羨道の長さ約1.8b  幅約1.5b
石室の天井石  玄室1枚  前室2枚
出土遺物  須恵器 鉄釘 金貼り耳環 鉄地耳環 ガラス小玉
         新羅の土器 
金銅製頭椎とうつい大刀古墳時代末期

・まとめ
  墳丘は当時の形を保っており、石室では、開口部の天井石に
      亀裂が走っているが、玄室・前室はしっかりした構造をして
      いる。副葬品からは金貼り耳環、金銅製の頭椎、ガラス小玉
      などがみられ、近くに兵瀬古墳があることを含めて考えると
      身分の高い豪族につながる一族か、それを助けた役人の墳墓
      と思われる。

●百田頭5号墳 調査 平成10・3・1〜3・31)

                                    

・墳丘      直経約5b  高さ3.9   円墳
・横穴式石室   羨道・玄室  石室全長約6.3b
       ・
玄室の長さ約3.1b 幅約2.0b 高さ約3.0b
       ・
羨道の長さ約1.6b 幅約1.2b 高さ約2.5b 
               →「
船の線刻」あり(時代不明)
・出土遺物  遺物は、古墳時代から奈良時代の須恵器、土師器、鉄製
       品、人骨が出土し、二箱分になる。その中に、中世の陶
       磁器が三点も出土している。

まとめ  墳丘は遠方から見ると、ほぼ丸く典型的な円墳状をしている
      が、周縁がかなり削り取られていることが分かった。
       石室は南西側に開口する横穴式石室で、開口の左側に80
      ×45p、高さ40pの台形型があり、開口唐見て正面と左
      面に二隻の「船の線刻」が書いてある。いつ書いたのか現在
      のところ不明である。
       羨道と玄室にかけて床面に板石を全体的に敷き詰めてあ
      る。羨道の所から土師器の杯一点と須恵器2点の杯身が出土
      している。
       期間は5世紀後半〜6世紀と考えられる。玄室の中に石棺
      はなく鉄釘が多く出土し、木棺で埋葬していることを確認で
      きた。他に副葬品も出土しているが、量は少ない。

●百田頭6号墳 調査 平成11・5・24〜6・18)
        
            

・墳丘     直経約12.0   高さ3.0   円墳
・横穴式石室  前室・玄室   石室全長約5.0
       
・玄室の長さ約2.4 幅約1.9 高さ約2.0
       
・前室の長さ約1.2 幅約1.5 高さ約1.1
・出土遺物 石室における遺物は非常に少なく、コンテナ一箱分しか
        ない。 須恵器 土師器 鉄製品 丸玉3個

・まとめ  本墳は百田頭5号墳と同じ円墳であるが周囲が著しく削平さ
      れていて、形状は当時とは異なる墳丘である。古墳から出土
      した遺物を見るとね、6世紀から7世紀ごろと推定される。
      遺骸埋葬施設は、木棺を使用したものと思われる。
       遺物では畿内系土師器の杯片が出土した。九州本土では極
      端に少量しか出土しないるこのことを考えると、百田頭6号
      墳の被葬者と畿内の中央政権と強い結びつきがあったと考え
      られる。




●山ノ神古墳 調査 平成13・10・25〜14・1・31)
 (芦辺町国分本村触)

  
 百田頭古墳5,6号墳の北西、約50bの(人家の北側の)道路側にあります。
  
   
※奥の天井石が無し。石室の内部が天井から見える
  
・墳丘     直経約14b  高さ約2.4b  
・横穴式石室  羨道・前室・玄室 5.5b
        
玄室の長さ約2.8b 幅約2.1b 高さ約2.7b
        
・前室の長さ約2.7b 幅約1.2b 高さ約1.3b
・出土遺物  須恵器(蓋・杯、高杯、長頸壺、平瓶、胴部の瓶など)
         土師器(椀片、平瓶など)
         鉄製品の鎌・鍬先(鋤)→6世紀末〜7世紀中頃

※まとめ  副葬品からは、追葬と考えられる鉄製の鍬先、鎌などが見ら
      れ、生活用具が多い。身分はねそれほど高くない人物だった
      と思われるが、石室から袖石を取り外しできる構造はあまり
      見られない、壱岐独自の特殊な構造と考えられる。


●カジヤバ古墳 調査 昭和61・10・13〜11・4)
  (芦辺町国分川迎触)

 
国分の国片主神社から住吉神社付近の国道382号線に接続する町道川迎線が走ってい
ます。この途中に「
かみひごや」(ガーデン和晃の隣)の資材倉庫がありますが、この駐
車場の西側の丘稜上にあります。

調査に至るまでの経過

 昭和48年に川迎線の改良工事が行われた際に、墳丘及び石室の一部が
破壊され、道路断面に石材が露出していた。再度、改良工事が計画され、
カジヤバ古墳の立地する丘稜部分を残し、着工された。
 そこで、昭和61年10月13日から23日間、発掘調査を実施した。
 発掘調査の段階で、石室の一部は破壊されていたが、ほぼ原形を維持
し、石室と羨道部分の境は閉塞された状態で検出されたので、調査後に移
築復原作業を実施することになった。
 昭和62年3月23日〜3月27日(5日間)まで、約5b北側に移築
復元を実施した。

・墳丘   玄武岩丘稜上に立地し、標高110b。墳丘規模は、残存す
     る部分から判断して、径11b前後、高さ3b前後。
・単室両袖式の横穴式石室  石室全長5.7b
・玄室   復元すると長さ2.1b 幅1.6〜1.7b
・羨道部  長さ3.15b 幅1.0b 高さ1.1b〜1.2b
・出土遺物 土師器杯 須恵器長頸壺 鉄釘 鉄鏃 鉄刀子 鉄斧

・まとめ  道路工事による丘陵切断で墳丘は半壊、石室も東南隅の1/
     4ほどを欠失する。墳丘は頂部と裾部で攪乱が著しく、周溝等
     を確認できなかったが、およそ径11b前後の円墳となろう。
      石室は、石も小振りで規模の小さな古墳である。玄室には鉄
     釘が出土し、木棺の安置が知られ、木棺例は初めてである。
      当古墳の年代的位置づけは、6世紀後半〜末頃に築造され、
     7世紀代には数度の追葬を経た後、8世紀後半まで祭祀が残る
     と考えられる。
      被葬者の性格は、出土遺物に畿内からの搬入品と考えられる
     もの、及び、その要素を持つものがある。しかも「律令的土器
     様式」の系統を引くものと想定される。この「律令官人の儀
     式、日常生活のための土器」ともされる土器の搬入は、壱岐が
     律令体制下におかれたことを示唆する資料と言えよう。
      最近の研究によれば、「律令的土器様式」の成立、搬入の背
     景には中央集権化を意図する古代律令国家の地方支配体制が強
     く反映されているとの指摘もあり、今後の検討課題の一つであ
     る。
      
     
 壱岐の古墳は、まだまだ解明されていない部分が多ようです。島内に密集
      する古墳群の性格や生活領域の問題。内的、外的な移動・交流の問題など多
      くの課題が見つけられます。壱岐の古墳研究は、今やっと端緒についたばか
      りとも言われています。今後の古墳文化の解明の進展を期待しています。

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