国分〜亀石周辺 1 

壱岐の遺跡の分布


(県教委・壱岐原の辻遺跡より)

 地図の国分寺跡は、島のほぼ中央にあります。この周辺から笹塚
古墳のある亀石
(がめいし)付近にかけて多くの史蹟があります。
 特に、古墳が多く、主なものはほとんど、この周辺にあります。
 
 
笹塚古墳と共に、朝日新聞で紹介された双六古墳は笹塚から南方
に約5分ほどの所にあります。

 鬼の窟の近くには、カジヤ場古墳・兵瀬古墳・山ノ神古墳・釜蓋
古墳・百田古墳群
(発掘中)があります。

 笹塚古墳の周りには、百合畑古墳群・掛木古墳・布気古墳群など
があり、この付近を散策すると他にも小さい古墳が目に付きます。
 
カラカミ遺跡 
 (勝本町立石東触)

 弥生時代の中期から後期にかけての遺跡で、原の辻遺跡が河口近くの
低地にあるのと対照的に、海岸から離れた
山間の丘陵一帯に分布してい
ます。 原の辻遺跡に比べると、小規模です。

 一見して、山城の雰囲気を持った頂上付近が中心で、ここに
香良加美と刻まれた石の祠があります

 この遺跡は、大正時代から発掘調査が行われ、出土品としては
ウマ・イノシシ・シカなどの
獣骨、鳥骨、魚骨、貝類、これらを使
用した
骨角器弥生式土器、また、多くの鉄器などがあります。
 石器は少なく、鉄器が主であるということは、石器時代より鉄器
時代へ移行していたものと思われます。
 特に、鯨の骨が出てくること、鯨伏(いさふし)という地名が使
われたり、沼津の古墳に捕鯨の線刻があることなどから、鯨が島の
周りだけでなく、湾内にも群れをなしていたのではないかと言う人
もいます。
 なお、ここから出土した土器が、中学校の教科書に「弥生式土器」
として例示されました。

 司馬遼太郎氏は、街道をゆく13 壱岐・対馬の道の〔風涛〕の
中で、くわしく、紹介されています。

ここから出土した遺物が、「風土記の丘」に展示されています。
「カメ棺 高杯
たかつき つぼ ヒョウタン型土器 器台」⇒
古民家園

ト骨・ト術者・ト(占)部・神道 
  

風土記の丘パンフレットより)

 ト術」の根拠となる「ト骨(ぼっこつ、シカ・イノシシの肩甲骨)」
が、昭和52年にカラカミ遺跡から出土し、
西日本で初めてと言われまし
た。その後、
原の辻遺跡からも、同じように出土しています.

 古代の日本は、「占(うらない)」が盛んに行われ、政治や行事など
を吉凶で決めていました。その基になったのが、「
ト骨」による占いで
した。「
ト骨」は占いの道具です。

 勝本町の串山ミルメ浦遺跡からは古墳時代の「亀ト甲(きぼっこう・
亀の甲を使って占う)」が出土したということです。

 壱岐には大陸から伝わった「ト術」を使いこなす「ト術者(ト部・う
らべ)
」がいて、優れた技術を持っており、「朝廷のト部」として5人
採用されたと「
延喜式」にあります。

 このような「ト部」の活躍が、「壱岐は神道の発祥地」と唱える人達
の根拠となっているようです。

 よく壱岐に来られた方が、神社仏閣の多いことに驚かれますが、昭和
16年、長崎県神職会壱岐支部の編集・発行の〔
壱岐国神社誌〕には、
174社の沿革・祭神・例祭日等が載っております。他に、水・田・山
・川・堤(池)・海などに関連ある神が、それこそ、無数にあります。 
 
  最近は、新しい神社ができたことは、聞いたことはありませんので、
昔は、「
ト術者」の指示で、このような神が、どしどし、祭られて行った
のではないでしょうか。

 これも、壱岐の歴史的背景の大きな要素といえます。


 「壱岐のト術」について、司馬遼太郎氏街道をゆく13
の〔壱岐のト部〕で、ト術古代神道などを、くわしく調査・解説され
ています。

へそ石・六地蔵
 (芦辺町国分本村触)



 人形のような形をしたのは、「六面十二菩薩と顎かけ石」です。柱状
の台石の上に仏塔がのっています。

 六面の塔身各面に「舟形光背佛」(船の形をした枠の中)が二体ずつ
刻んであります。文字は一字だけ、裏側に「大」と読み取れます。

 「壱州の真中、国分が真中,へそ石真中」といわれていますが、この
へそ石」は柵の中です。石柱の中ほどに、顎の高さに切り込みがあり
ます。

 国分寺跡」は奥の竹林付近です。左の神社は「市えびす」が祭って
あります。この前の道路付近は「馬場」だった所で、市が開かれ、相撲
などもあり、賑わった所です。

 すぐ、側にある国分天満宮の秋の例祭では、400年の伝統がある奉
納相撲が行われています。

月読神社 
 (芦辺町国分東触)



 国分寺跡から東へ約5分ほど歩いた所にあります。
 写真にあるのは、本殿の裏側にある古い石祠で、正面に「月読神社」
と刻銘されています。

 ここには、月読(月夜見・月弓)尊を祭神としています。
 天照大神が昼の神様で、月読尊は夜を司る神様として崇拝されてきま
した。

 榊原伸宮司は、「月は潮の満ち干のもとで漁業・出産などに関係があ
り、月も万物に恵みを与えると素直に受け入れ、信仰の対象になったも
のと思われます。」と話されました。

 郷土史家、占部英幸氏の島の科学掲載の内容から要約しますと、

 「鎮座年は487年。
延喜式に壱岐郡月読神社「名神大」とあり。古
事記の上巻に月読尊の誕生のことが載っている。西暦487年には
県主
分霊して京都にお祀りした。京都の松尾大社の横に月読神社がある。
 伊勢神宮の内宮に月読神社、また外宮に月夜見神社があり、壱岐の月
読神社が全国の月読社の「元宮」(もとみや)とされている。」とのこ
とです。

石田町の遣新羅使の墓に葬られている雪連宅麿は、京都月読神社
 を創建した県主の子孫です。
遣新羅使、雪連宅満の墳墓1


 
最近は、「」は「つき」(幸運・繁盛・勝利)を呼ぶとして、漁業
者をはじめ、商業・会社経営者などの参拝が多くなっています。中には
市長・プロの棋士も来られています。

 平成12年10月13日、四日市市から帰省した鯨伏出身の山口明博
君を案内
(小山弥兵衛・双六古墳等も)して回り、ここに来ましたら、婦人と
子息(青年)の三人連れに会いました。福岡から来られたということで
すが、本殿の横の方にある古い社殿(石祠)の前では、三人とも靴を脱
ぎ、裸足になつて礼拝されました。その敬虔な姿に月読神社に対する信
仰の深さを知らされました。

 なお、同月26日に元京都大学名誉教授・元大阪大学学長の
上田正昭
先生(著書:
日本神話(岩波新書)、古代伝承史の研究日本古代成立
史の研究
日本古代国論の研究、他40冊余り)が、「壱岐、対馬の国
境文化を探る旅」のメンバーの講師役として來島され、講話がありまし
たが、その中に、上記の占部氏の説と概略同様な事が出てきました。そ
して、壱岐の人達が余りにも、月読神社について知らな過ぎると指摘さ
れました。

 
 ここの「
月読神社に神道の揺籃をみることができる」と言う神社の研
究者もいると宮司さんは話しておられます。

 神道の起源説について、「
壱岐島史年表」によって考察してみますと、
487年に「月読神社に天月神命を祀り、高御祖神社に天月神命の祖
高産霊尊を祀る」(
神社考)となっています。
 
このころは、壱岐では
古墳時代中期にあたります。 そして、大和政権
は盛んに朝鮮半島への進出をはかっています。

 
369年に、任那に日本府をつくり、百済・新羅・高句麗などと戦い
、朝鮮南部に領土を広めています.

 中国との国交も進めています。

 
仏教がこの頃伝わっています.(538年)

 
562年、新羅が任那を滅ぼしています。

 
632年に「第一次遣唐使犬上御田鍬帰朝の記事中に伊岐史乙等の名
あり」(壱岐国史)とあります。

 
239年に書かれた「魏志倭人伝」に「一大国」と壱岐国について
記載されています。

 これらのことから、
239年632年約400年間に壱岐
のことについて、
月読神社と御高祖の記録だけで、他はないということ
は、いかに、
占い・祈祷などで、この神社が対外的にも重要な役割を
はたしていたかを示していると思います。
 
 とくに、「
487年に京都に分霊して祭る」ということが、壱岐の中
心性・指導性
をしめしています。

 そこで、自然に,神道の構成・内容に、ここの国防の第一線の神社
占い・祈祷などの技術が取り入られて行ったのではないでしょうか。

 この点から、月読神社の
神道発生論がでてくるのだと思いますすが、
どうでしょうか。
 
 
 司馬遼太郎氏の「街道をゆく13」の「壱岐のト部に、
月読神社に関する内容があります。

壱岐の主な宗教行事(神仏混交)

 つぎは、あるお寺の一檀徒の生活(民俗)です。

 壱岐では、地域の主要な神社を郷社として祭り,その下に末社(まっ
しゃ)として数社から十数社がありますが、中に,山・川・水・田など
自然崇拝のものが多く含まれており、地域住民が氏子として支えていま
す。地域に住居のある者は、誰でも氏子なれるということは,
神道の開
放性・おおらかさ
を示しています。

 氏子の代表が総代となり、合議制の総代会が宮司と共に、神社の運営
に当たっています。
 氏子は、例祭の時、神輿を担いだり、幡を持ったりする
社役交代で
務めます。
祭典費の負担がありますが、数千円程度だと思います。これ
には、神道の氏子(神道で葬祭をする家)と一般の氏子(寺の檀家など)
との負担の差はありませんし、異議を言う人もいません。私の触(ふれ
・自治会)は、24戸ありますが、神道の家は1戸です。他の地域でも、
多くても2,3戸ぐらいの割合と思います。

 又,壱岐に定住してきた先祖を持つ家は、ほとんど、どこかのお寺の
檀徒となっています。江戸時代にキリスト教対策としてつくられた檀家
制度
が厳然とあり、お寺には位牌堂がつくられ、各家庭別の仏壇があり、
位牌が祭られています。故人の位牌は、家庭と旦那寺にあるわけです。

 位牌堂というと、対馬の万松院を思い出します。この寺は、対馬の大
名の宗氏の菩提寺ですが、ここに徳川歴代将軍の豪華な位牌が祭られて
います。
 宗氏が徳川将軍をバックに朝鮮通信使を威圧しようとした意図が読み
取れて面白く思いました。朝鮮通信使は、どんな思いで頭を垂れたので
しょうか。
 最近のニュースによると、この朝鮮通信使の行列が復活して、盛大に
親善の輪を広げたり、対馬と韓国間に定期航路もスタートしたというこ
とてすが、一衣帯水の壱岐人としても大変嬉しい事です。

 葬式が終わると、ほぼ一ヶ月以内に寺送りの供養が行われます。これ
は「寺の位牌堂に故人の位牌を送り出す」儀式で、昔は故人が世話にな
った地域の人や友人達まで呼んで大々的に行っていましたが、最近は親
族の範囲ぐらいになっています。この時、寺
(住職)司堂金を納めま
す。金額は任意で、相場は5万〜30万円ぐらいと思います。余裕のあ
る人は上限はありません。この時、別途、先祖供養の名目で、金品を寺
に寄贈する人もいます
が、一般的ではありません。

 供養は、こまめに行われます。一年先ぐらいまで、まとめて行うとい
うことは、滅多にありません。

 壱岐では戒名料という言葉は、使われていません。 

 壱岐の
檀家は、正月春の彼岸十夜の四回、旦那寺に参りに行
きます。檀徒の代表の
総代が世話をしますが、総代を中心とした支持組
織は経済的支援をはじめ、強固なものです。
 寺への義務的な納入金は、供養代維持費で、分割して年1万〜2万
円前後だと思います。私達の寺では、最高で1.5万円ぐらいです。 
 十夜(じゅうや)供養は、壱岐のお寺にだけ行われているのでしょう
か。壱岐の人が、
十夜という言葉をだすと、島外の人から「十夜とは、
何か。」とよく聞かれます。

 十夜とは
十夜念仏の略で浄土宗の仏事のことです。「陰暦10月6日
より同15日までの10夜の間、念仏すること」が起源です。壱岐では、
この間頃に浄土宗だけでなく、
すべての宗派の寺で行われます。

 歿後、初めての十夜は「新十夜しんじゅうや)」といい、親族が寺に
集まり供養します。この時は、同じ宗派の住職さん
(寺数の少ない宗派は他
から応援をされている)
が集まり、嘆佛供養たんぶつくよう哀調を帯びた抑揚
の長い御詠歌に似たお経を唱えられる
)があります。この時、年忌供養(3回忌、
7回忌など)
先祖供養する家もあります。

 昔は、十夜は文字通り、夕方から夜にかけて行われ、親族が集まり、
位牌の前で賑やかに会食したり、境内には出店ができ、菓子や玩具が買
えるので、子供達も大変楽しみにし、当日はお祭り気分になって騒いだ
りしたものですが、今ごろは、供養も昼過ぎから始まり、夕方には終わ
っています。
 
 子供達の姿は、ほとんど、見かけません。

 最近、島外から説教師さんを呼んで、「説教」を復活させようという
動きがありますが、往年のように本堂一杯に人が溢れるようなことは、
もう、望むことはできません。

 正月には初詣をして、旦那寺に参って先祖の位牌を拝み、宅神祭(

くじんさい・宮司さんに家に来てもらい、家の神々を祭ってもらうこと。一般的では
ない。)
をして、彼岸に寺に参って先祖を偲び、七五三でお宮参りをし、
神前で偕老の契りを結び、盆には先祖を供養し、秋の氏神様のお祭りの
太鼓に血を躍らせ、先祖の年忌供養をし、新車・新築・地鎮のために祝
詞をあげてもらい、クリスマスには賛美歌の音色に心の安らぎを覚えつ
つ年の瀬を迎えて神棚・仏壇の清掃に励みます。

 お祝いは神道で、弔事や供養は仏式でと何の違和感もなく、生活して
いる私達日本人の
神仏混交の典型的宗教生活が、簡素化されたとは言え、
この壱岐の島に根強く残っています。

 この多神教的・許容的要素は日本人の思考のあいまさ・非論理性を示
していますが、反面、社会の
話・輪)の基盤になっているのでしょ
うか。

 こんなことを思い出しました。
 
 それは、学生の時、クリスチャンの教授が、英語のテキストに「マタ
イ伝」を使われました。古めかしい文体に嫌気がさしたある学生が、聖
書の奇蹟的な内容について疑義を述べました。
 教授は、おもむろに「信じればいいのです。信仰です。」と笑みを浮
かべながら言われました。この笑みの意味するものはわかりませんでし
たが、その時は、この教授は得体の知れない人のように思いました。

 とにかく、自分にとっては宗教は「心の休息」と自問自答しつつ,こ
の稿を終わります。

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