葛 の 花
                     
  横山 順


         
 「葛の花」の歌 3

 
昭和四十七年七月二十日の西日本新聞に「『葛の花』の歌」と題する一
文が載った。筆者は山本健吉氏で、氏の連載随筆「猿の椅子(こしかけ)」
の第十三回目であった。
 山本氏が、この文章を書かれた動機については、

  
 「私が前に「葛の花」の歌は実は奥熊野での作らしいと書いた時、
  それを読んだ壱岐の人が、その根拠は何なのかと聞いて来たので九州
  の新聞でそれに答えて置こうと思ったからであった」
(「壱岐か奥熊野か」
   二二二ページ)

 
と述べておられる。
 「それを読んだ壱岐の人」とは、山川胤美(鳴風)氏であろうと思われ
る。山川氏は、『日本詩人全集』十六巻の山本氏の解説文を読まれ、そこ
に「奥熊野」と記されているので、何に基づくのかを山本氏に尋ねられた。
が何も返事がなかったと筆者に話されたことがある。山川氏ではなくて、
別人であるかもしれないが、誰か「壱岐の人」が問合わせたのである。
 山本氏の「葛の花」の歌は、次のように始まる。

   壱岐の島に渡って作ったという釈迢空の歌に
   葛の花 踏みしだかれて 色あたらし。この山道を行きし人ありと
   いう有名な歌がある。この歌について私は、昔雑誌『日光』に、発
  表されたときは、『奥熊野』とあることを書いたら、これが壱岐での
  作と信じこんでいた島のひとに、ちょっとしたショックを与えたらし
  い。
   これは迢空の一世一代の名歌の一つなのである。それが自分の郷土
  の山川草木と結びつく一首であると知ったら、それはまたかくべつの
  ものであろう。だから、そう信じているひとに、そうでないと言った
  私は、心ない仕打ちをしたことになる。

 と前口上を述べられ、次いで山本氏は、「それにこの一首は、迢空(折
口信夫)が壱岐での作であることを、皆に信じこませようとしている一首
なのだ」(これは筆者には分からない)と書かれる。次ぎに折口が、なぜ
『日光』に『奥熊野』として発表したかについてが続く。

   このときの迢空の心事を憶測してみれば、奥熊野のイメージとは幾
  重にも重なり合っていたのではなかろうか。『海やまのあひだ』とい
  うのは、海岸からすぐ奥深い山につづく狭い島国ということで、迢空
  にとっては、この貧しく悲しい祖国日本の象徴なのである。柳田国男
  が『島山』と名づけたものと同じイメージである。山と海と二つの大
  きな自然におびやかされ、せぐくまって住んでいた、日本人の祖先の
  生活を、彼は思っているのだ。
   彼にとっては奥熊野も壱岐も、そのようなものとして変わりはなか
  ったのである。だから、『葛の花』の一首は、どちらに入れられても
  差支えなかったのかも知れない。どちらも十一首ずつと数を合わせる
  ために、『奥熊野』の方に入れられたのかも知れない。
   こういうと、この歌は一体どこで作ったのかわからなくなる。わか
  らなくてもよいし、どっちで作ったと言っても間違いでないのかも知
  れない。だが私は、どちらに傾くかと言へば、迢空の意に反するかも
  しれないが、『奥熊野』の方である。
   大正元年八月、迢空は今宮中学校での受け持ちの生徒二人をつれ、
  志摩・伊勢から熊野へ回って、海山のあいだを歩いた。このとき船津
  から大台ケ原の山中にはいり、山中に迷って、二日も木樵(きこり)
  小屋に泊まったという。そのときの食料もなく、二日も人に逢わなか
  った心細さと人なつかしさを回想したのがこの歌ではないか、という
  のが私の推理なのだ。この旅行の作品は、『奥熊野』と題して、歌集
  に二十三首が収めてある。それとこの回想の歌を区別する気持が、迢
  空にはあったように思う。

 
右の山本氏の一文が発表された翌月の八月八日号の西日本新聞に、山口
麻太郎氏は、「葛の花の歌の地理」−山本健吉氏の連載随筆に寄せてーと
題して書かれた。これは山本氏に対する山口氏の反論であった。

  
 (前略)私は壱岐島のものである。しかし「心ない仕打ち」をされ
  て、ちょっとしたショックを受けているものではない。山本健吉氏と
  いえば、俳句や短歌の大学者である。著書もたくさんある方である。
  その方が(中略)「彼にとっては奥熊野も壱岐も、そのようなもの海
  岸からすぐ奥深い山につづく狭い島国)、すなわち『海山のあひだ』
  として変わりはなかったのである。だから『葛の花』の一首はどちら
  に入れられても差支えなかったのかも知れない。どちらも十一首ずつ
  と数を合わせるために、『奥熊野』の方に入れられたのかも知れな
  い。」といっておられる。
   「蜑の村 壱岐」の部に入れずして「奥熊野」の部にいれられてあ
  れば、一応奥熊野での作とすべきことは明かであるが、しかし他方
  『改造』(大正十三年十一月号だったかと思う)に「島山」と題し
  「−壱岐にてー」と明記して発表された十一種のへき頭の「葛の花」
  は、どうして一言も触れずして抹殺されたものであろうか。『改造』
  発表に一言も触れずして、奥熊野作と推理されることは理解しがたい
  ところである。
   山本氏は「こういうと、この歌は一体どこで作ったのかわからなく
  なる。わからなくてもよいし、どっちで作ったと言っても間違いでな
  いのかも知れない。だが私は、どちらかに傾くかと言えば、釈迢空の
  意に反するかも知れないが、『奥熊野』の方である」といっておられ
  るが、作者が「壱岐にて」と明記して発表しているものを、単なる想
  像で打ち消すことは読者としてはしたくない。すべきものでもあるま
  い。数をそろえるためにしたのではないかと想像する前に、原稿の上
  での間違いではないか。あるいは印刷の上での間違いではなかったか
  と疑って検討してみる必要があるのではあるまいか。
   私はあの当時、初山村に採訪して得られた歌だと、だれからかどう
  してか印象づけられていたことを思い出す。あの歌は、朝の作だと感
  じている。足元を見ながらのぼる坂道で得られたものであろうとも思
  っている。それは公立病院の向こうの坂をのぼりながら、路上一面に
  こぼれている葛の花が、いたく踏みにじられているのを、いたいたし
  く見ながらのぼられたのではあるまいかと考えている。

 
この山本、山口両氏の文章を一読して気がつくことは、山本氏が『改造』
発表を、山口氏も『日光』の発表を、それぞれ存知しておられなかったこ
とである。が、両氏は明瞭な資料を、お互いに示教されたわけである。特
に『改造』発表の史実は、折口信夫研究者に対し、「壱岐のひと」が、折
口が「壱岐島での作」と証左する文献を、『短歌文学全集』自註、『自家
自註』に加えて明示したのである。
 山本氏は、同月二十六日号の同紙の連載随筆四十五回に、「『葛の花』
の歌ふたたび」を掲載される。

  (前略)
   
氏の一文は、これまで壱岐での作とされてきた迢空の『葛の花』の
  歌について、雑誌『日光』(大正十三年十月)の初出では『奥熊野』
  とあるところから、これは奥熊野の作かも知れぬと、私が疑問を出し
  たことに対する反論であった。その証拠として雑誌『改造』(大正十
  三年十一月号だったかと思う、と氏は言われる)に『島山―壱岐にて
  ー』と題する十一首の冒頭に、この歌があったことを挙げられた。
   なぜこの『改造』発表に、私が一言も触れないのか、と氏は言われ
  る。私は念のため『折口信夫全集』三十一巻の著述総目録を調べたが、
  書かれていない。ただし、大正十四年八月号の『短歌雑誌』に『島山』
  二十六首がある。そこで国会図書館で人に調べてもらったところ、あ
  いにく『短歌雑誌』はそのころの部分が欠けていたが『改造』は山口
  氏のいう十三年十一月号に、氏の記憶通りの題で、十一首がはっきり
  出ていた。全集の著述総目録に落ちがあったわけである。これは迢空
  が処女歌集『海山のあひだ』を出した改造社との縁の結ばれであった。
  この大事な文献を教示された山口氏に感謝したい。
   すると、さて、どういうことになるのか。一月早い『日光』の発表
  は奥熊野で『改造』は壱岐である。翌年五月の歌集『海山のあひだ』
  では、何処とも書いていないが、壱岐と想像できるようになっている。
  また『短歌文学全集』自註には、この歌を含む『島山』の連作は「す
  べて壱岐島での作」とある。さらにまた『自歌自註』でも、壱岐での
  作として註解している。
   だから私は『改造』発表の如何にかかわりなく、迢空が壱岐での作
  と皆に信じさせようとしている一首だと前に言ったのである。にもか
  かわらず、この歌の初出が『奥熊野』になっていることも、はっきり
  した事実なのだ。山口氏といえども、それを無視することの出来ない、
  重い事実なのである。
   結局私は、迢空が繰り返しこれが壱岐での作と言っているにもかか
  わらず、最初に奥熊野での作として発表した事実を重視する。それを
  原稿や印刷の上での間違いと考える余地はまずない。迢空は過去の印
  象を幾重にも重ねて一首に仕立てることが多かったと思われるから、
  この一首にも熊野や壱岐の山道を歩いた経験が重なっていることも十
  分考えられる。とすれば、この歌の詠まれた場所は、はっきり限定で
  きなくなる。少なくともその場で即座に詠まれた歌ではない。だがこ
  の歌の原体験としては、奥熊野で少年二人を連れて二日間道に迷った
  時の心細さが横たわっているというのが私の想像だ。
   ただし山口氏のような壱岐の住人が、初山村の朝の坂道での歌とい
  う印象を持っていられるのは、得がたい心証と言えよう。その場に山
  口氏がいられなかったとすれば、どうしてそういう印象を持っていら
  れるのか、も少し詳しく教えて頂ければ幸甚である。

 山口氏は、山本氏に答えられなかった。
 山本氏は、その後『短歌』昭和四十八年十一月臨時増刊号(角川書店)
に「壱岐か奥熊野か」を発表された。このうちの文章の幾つかは、本文で
すでに引用しているが、論旨はこれまで述べてこられたことを、詳細に書
かれ、奥熊野説を主張されておる。でこれは省く。
 山口氏が答えられなかったのは、見解を異にしておられるからであろう
と思う。つまり折口が「壱岐にて」と記した以上、付言する必要はないと
いうことに解している。
 

     
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