葛 の 花
横 山 順
「葛の花」の歌 2
「葛の花」の歌がつくられたのは大正十三年、その翌年の『海山のあひ
だ』に収録されて出版されたと書いた。しかし、この歌が最初に発表され
たのは、短歌雑誌『日光』の大正十三年十月号であった。
『海山のあひだ』の題で、「奥熊野」十一首、「蜑の村 壱岐」
十一首のうち、「奥熊野」の二首目に発表されてゐた。すなはち、こ
の歌の初出では熊野の歌であった。そのことを私は数年前に知った。
(山本健吉「壱岐か奥熊野か・」『短歌』昭和48年11号220ページ)
昭和四十三年一月に出版された『新潮日本文学小辞典』の折口信夫の項
には、
沖縄の帰途、彼は壱岐の島に立ち寄った。「葛の花 踏みしだかれ
て、色あたらし。この山道を行きし人あり」はこの時の作とされてい
るが、実は熊野での作。とあり、同年四月に同じく新潮社から刊行さ
れた『日本詩人全集』一六巻「折口信夫・会津八一集」の解説文「人
と作品」をみると、この歌(「葛の花」の歌)は、『海山のあひだ』
では、壱岐旅行の収穫である「島山」の連作の一首に収められている
が、実は熊野での作なのである。
と書かれていた。筆者はいずれも、文芸評論家の山本健吉氏であった。
昭和四十年代に入って、それまで「葛の花」の歌は、折口が「壱岐の島
での作」といっているにもかかわらず、「奥熊野」に改められだした。す
べては『日光』に、「奥熊野」とあるからである。
右の山本健吉氏のほかに、昭和四十四年刊の『日本の詩歌』一一巻では
加藤守雄氏が、また昭和四十六年刊の角川版『日本近代文学大系』の「折
口信夫集」では池田弥三郎氏が、さらに池田・加藤両氏による『ちょう空
・折口信夫研究』(角川書店=昭和四十八年)等々では「奥熊野」と記さ
れるようになった。
ともかく、『日光』には「奥熊野」とあった。
短歌雑誌『日光』は、北原白秋、土岐善麿、古泉千樫、石原純、前田名
暮、木下利玄、折口信夫らの同人誌で、大正十三年四月に創刊された。
ところで、大正十三年の総合雑誌『改造』十一月号に、折口は短歌を発
表した。「島山―壱岐にてー」と題した十一首であった。この連作の冒頭
にあったのは、ほかならぬ「葛の花」の歌であった。『改造』では「壱岐
にて」と折口は記して、広く発表したのである。
わづかに一月足らずしか経ってゐないのに、「奥熊野」の作を「壱
岐」の作に仕立ててしまつた作者の気持ちは、どう考へたらいいのだ
らう。試みに「日光」発表の「奥熊野」「あまの村 壱岐」と、「改
造」発表の「島山―壱岐にてー」とを引き合せてみると、重複歌はた
った一つ「葛の花」の歌しかない。さらにそれらを、歌集『海山のあ
ひだ』と引き合わせて見ると、それらは歌集の大正十三年のくだりの
冒頭、「島山」「あまの村」「山」の三十首なのである。その場合、
「奥熊野」のなかにあった「虚(そら)耳をさびしみにけり。沢深く
人来る杖の音を聞きつつ」が歌集で除かれたこと。新しく歌集に
「船べりに浮きて息づく蜑が子の青き瞳は、われを見にけり」の一首
が加えられたこと。独立の一首であった「ゆくりなく訪ひしわれゆゑ、
山の家の雛の親鳥は、くびられにけむ」が、歌集では詞書あつかひに
なってゐること。この三点を除けば、二つの雑誌に発表した羇旅歌は、
すっぽり歌集に収まってゐる。(山本健吉「壱岐か奥熊野か」223ページ)
「葛の花」の歌を重複させた「作者の気持ちは、どう考へたらいいの」
か、山本健吉氏同様に、筆者だけでなく、誰しも同じ思いであろう。しか
し、軽々に判断を下すべきではないし、『日光』『改造』ともに、書かれ
た事実は事実として扱う以外にない。
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