横山順君(郷ノ浦町田中触)は、壱岐高校の同期(2回卒)で、昭和
36年(1961)、国学院大学中退。在学中、ニッポン放送・ラジオ
芸術劇場に入選。その後、NHK(教育番組)の放送台本を執筆。昭和
46年(1971)帰郷し、壱岐日報社記者を経て壱岐郷土館長兼郷ノ
浦町立図書館長を務めました。
 『
葛の花』は、昭和52年(1977)に発行された壱岐文化協会誌
の「春一番」に掲載されたもので、「古き、よき時代の壱岐の島」が読
み取れます。眠らせておくのは惜しいので、横山君の許諾を得て転載し
ます。                       (01.8.22)


       
葛 の 花 
            横 山  順

      折口信夫と壱岐 1

 折口信夫(釈ちょう空)は、二度、壱岐へ来島している。大正10年
(1921)と同13年(1924)のいずれも夏であった。大正10
年は沖縄旅行の帰途に寄っている。8月23日から、9月9日か10日
頃までの約20日間(予定では1ケ月とある)滞在して、島内の民間伝
承を調査している。
 折口を壱岐へ招じたのは、石田町印通寺の熊本利平で、柳田国男(民
俗学者)の口利きであったという。
 折口信夫と熊本利平との関係については後述するが、折口は壱岐へ呼
んでくれた後援者について、次のように記している。
   私に壱岐の島の民間伝承を調べる機会と、入費とを作ってくれた
  のは、此島を出た分限者で、島の教育の為に、片肌も両肌もぬいで
  かかってゐる人である。(『雪の島』―熊本利平に寄すー折口信
  夫全集第三巻89ページ)
 さて、折口信夫の目に映じた壱岐を、『雪の島』その他の著作と書簡
などでみてみる。当時の博多と壱岐を結ぶ定期船の運航については、『
書簡五二』(全集三一巻164ページ)に次のようにある。
   晩に出れば(郷ノ浦港を)朝つき(博多に)、二時程してまた乗
  れば夕方つく(郷ノ浦港に)。
 折口は「琉球諸島の長旅の末、鹿児島にあがり、又九州を通り越して
壱岐の島へ渡った」(『恋の消息』全集二八巻111ページ)と壱岐へま
っすぐきたように書いているが、鹿児島から長崎へ行っている。
   壱岐へは二度渡った。(中略)琉球からの帰りを、長崎まで出、
  船便の都合で、又博多へ来て小蒸汽に乗った。三十五の年の九月中
  旬である。島に二週間居て、毎日歩き回った。今考えても苦しい旅
  であったと思ふ。(『短歌文学全集』自註―街道の砂その四−全集
  三〇巻53ページ)
 長崎に寄ったについては、次の座談会が説明している。
   池田(弥三郎) 琉球から帰ってこられたとき、先生呑気で、壱
           岐は長崎県だから、船は長崎から出ると思って
           長崎へ行った。船は博多から出るんで…。
   西角井(正慶) 今なら唐津から出ますけどね。(当時も唐津航
           路はあった。=筆者)
   池田     がっかりして諏訪神社の石段に腰をかけていた。
   加藤(守雄) 髭がぼうぼうでね。
   池田   そこで、だれか知った人に逢って、島帰りの俊寛とい
        われた。(笑)〔全集月報第三号「座談会・全集にそ
                って〕
 長崎から博多へ戻った折口は、8月23日の朝、博多港を出港する
小蒸汽≠ノ乗船して、壱岐を目指す。『雪の島』の冒頭は、博多湾口
の志賀の島を離れてから、玄界灘の海路、壱岐での最初の寄港地、芦辺
浦入港までを描写している。
   志賀の鼻を出離れても、内海とかわらぬ静かな凪であった。舳の
  向き加減で時たまさし替る光を、蝙蝠傘に調節してよけながら、玄
  海の空にまっ直に昇る船の煙に、目を凝らしてゐた。艫のふなべり
  枕に寝てゐて、しぶき一雫うけぬ位である。時々、首を擡げて見や
  ると、壱州らしい海神(ワタツミ)の頭飾(カザシ)の島が、段々
  寄生貝(ガウナ)になり、鵜の鳥になりして、やっと其国らしい姿
  に整うて来た。あの波止場を、此発動機の姉(アネ)さんの様な、
  巡航汽船が出てから、もう三時間も経ってゐる。大海(オオウミ)
  の中にぽつんと産み棄てられた様な様子が「天一柱」(アメノヒト
  ツバシラ)という島の古名に、如何にもふさわしいといふ連想と、
  幽かな感傷とを導いた。
   土用過ぎの日の、傾き加減になってから、波ばかりぎらぎら光
  る。芦辺浦に這入った。目の醒めた瞬間、ほかにも荷役に寄った蒸
  汽があるのかと思うた。それ程、がらにない太い汽笛を響して、前
  岸の瀬戸の浜へかけて、はしけの客を促して居る。博多から油照り
  の船路に、乗り倦ねた人々は、まだ郷野浦行きの自動車の間には合
  ふだろうかなどと案じながらもやっぱりおりて行った。
 折口は、同船した一人の少年から受ける印象をとおして、「行かぬ先
から壱岐びとに親しみと、豊かな期待を持つ」。このくだりを、山口麻
太郎氏は「折口信夫博士と壱岐の島」(『折口信夫まんだら』)で、「
その時のことは『雪の島』に情熱をこめて書いておられる。薬瓶をさげ
た一少年に寄せて、初めて渡る壱岐の島に、歌人らしい感懐をのべなが
ら……・・」と記しておられる。
   福岡大学病院の札のついた薬瓶を持って居る様だから、多分、投
  げ出して居た、その包帯した脚の手術を受けに行って居たのであら
  う。膝きりの白飛白の筒袖に、ぱんつの様な物をつけて、腰を瓢箪
  くびりに皮帯で締めてゐた。一六七だろう。日にも焦けて居ない。
  頬は落ちて居るが、薄い感じの皮膚に、少年期の末を印象する億劫
  さうな瞳が、でも、真黒に瞬いてゐた。船室へ乗りあひの衆がおり
  て行った後も、前後四時間かうして無言に青空ばかり仰いでゐる私
  の側に、海の面きり眺めてゐた。
   時々頭を擡げると、いつも此少年の目に触れた。大学病院へ通っ
  てゐましたか、ぐらゐの話を、人みしりする私でもしかけて見たく
  なった程、好感に充ちた無言の行であった。島の村々を、するめ・
  干し鰒買ひ集めに、自転車で回る小さい海産物屋の息子で、丁稚替
  りをさせられてゐる、と言った風の姿である。(中略)東京の教養
  ある若者にも、ちょっとない静けさだと思った。なる程、壱岐には
  京・大阪の好い血の流れが通うてゐる。早合点に、私は予定の二十
  日は、気持ちよく、島人と物を言ひ合ふ事の出来さうな気を起しゐ
  た。
 折口の来島の目的については,前にも述べたとおり,民間伝承の採訪の
ためであった。壱岐にきた年の『アララギ』十一月号に発表した文章
に、「海道の砂」その三(全集二八巻84ページ)があるが、文中に「
班田法と、流配者の始末とを、壱岐文化の由来を調べる二つの大きなめ
どとして居た。」とある。班田法は地割り制度についてであり、流配者
とは流人のことである。後者の流人のことは、来島前から折口の胸中
に、大きな比重を占めていたようである。それでか船の少年にも、折口
は流人の面影をみることとなる。
   此静かな目は、海部(アマ)や、寄百姓(ヨリビャクショウ)の
  心理をつきとめても出て来るものではないだらう。「島の人生」に
  人道の憂ひを齎した流人たちは、所在なさと人懐しみと後悔のせつ
  なさとを、まづ深く感じ、此を無為の島人に伝えたであらう。此島
  人が信じてゐる最初のやらはれ人百合若大臣以来、島の南に向いた
  崎々には、どの岩も此岩も、思ひ入った目ににじむ雫で、漏れなか
  ったのはなからう。都びとには概念であった「ものゝあはれ」は、
  沖の小島の人の頭には、実感として生きてゐた。少年の思ひ深げな
  瞳は、物成(モノナリ=収穫の一部で納める年貢)のとり立てにせ
  つかれただけでは、島の世間に現れようがなかった。其は憧れに於
  て恋の如く、うち出したい事に於ては文学を生む心に近づいたもの
  である。
   だが、其が民謡の形となるには、別の事情が入り用であった。島
  には其要件が調うてゐなかつた。島の開発は、わりあひに遅れてゐ
  た。唄も楽器も踊りも、地方(ヂカタ)で十分芸道(ゲイタウ)化
  した時代であった。特殊な伝説もない島の芸術は、皆、百姓と共に
  寄ってきた。祭礼も宴会儀式も、必ずしも歌謡を要せなくなった時
  代に始まった文明は、後々までも、固有の歌を生まないものであ
  る。動機もあり、欲求もあって其様式がなかったのである。地方か
  ら伝はる唄を謳ふ位では、其が新しい音楽を孕み、文学を生み落す
  懸声にはならなかった。悲しんでも、其を発散させる歌もない心
  は、愈、瞳を黒くした。夏霞の底に動かぬ島山の木立ちの色の様
  に、静かに沈んで、凝って行った。
 だが、折口の見た壱岐の少年は「若い快さを湛え」、「凛として居
る」のだった。折口と少年との出会いは、壱岐をこの上なくよい島に想
像させる。
   よい家、よい村、よい社会を思はわせる純良な、少年の身のこな
  し、潤んだ目に、まづ島人の感情と礼譲とを測定した事であった。
  私の空想が、とんでもない方へ行ってゐる間に、此若者の姿が見え
  なくなった。そう(船の倉)窓の下から、両方へ漕ぎ別れて行った
  二艘の一つに、黒瞳の子は薬瓶のはんけちの包みをさげて、立って
  ゐる。瀬戸の岸へ帰るのだ。此島にゐる間に、復此壱岐びとの内界
  を代表した目の玉に、生き会ふこともあるだろうか。幾年にもない
  若々しい詩人見たいな感情をおこして居ると、旅の心がしめっぽく
  なって来る。そんなことはよしにして、まあ初めて目に入る、島国
  の土地の印象を、十分とり込もう。

 

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