葛 の 花
                  横 山  順


    折口信夫と壱岐 2

 
芦辺浦を出た小蒸汽は、郷ノ浦へ向かう。風が少し出て、横ぶれが始ま
る。今晩あたり一荒れきそうだと乗客はうわさしている。
 折口信夫は船員の話を聞いたり、夏外套を着た紳士の、いんぎんな口調
の、壱岐の話に耳を傾けていた。
   もう船は、島の南側に回ってゐた。見るから暗礁(カクレバエ)の
  多かり相な、石田・初山の前海である。気ぜわしない震動を船全体に
  響かしながら、走ってゐる。
  「違いましたら、ご免しまっせ。黒崎の神官さまの、東京にお出でる
  兄息子様でおいでまっせんか」
   瞬間、とんでもない人違ひに当惑させるような、だしぬけの問ひを
  かけながら、話仲間に割りこんで来たのは、四十そこそこの浴帷子
  (ユカタ)がけの、分けた頭に手入れの届いてゐる点だけで、相当な
  身分を思はせる人だ。私は「いいえ」と答える下から、その私のとり
  違えられた当人が、一面識のある人なのに考へ当った。私のなじみ深
  い学生の兄さんで、くろうと好みの新聞の、而も、経済方面に務めて
  ゐる人である。
 この闖入者は奇縁であった。折口も書いている「なじみ深い学生の兄さ
ん」とは、郷ノ浦町里触の神官、松島家の長男で、なじみ深い学生は、同
家の二男真氏であった。真氏は国学院の学生で、折口の教え子だった。そ
れに歌の弟子でもあった。折口が大正十三年に来島した時は、この松島家
に宿泊したといわれている。松島真氏は昭和三十六年に亡くなられた。
 珍事に、折口の気分は大分ほぐれたようである。そして小蒸汽も郷ノ浦
港へ入る。
   駆逐艦が二艘かゝってゐる川尻の様な処から、長い水道を這入って
  行った。郷野浦である。外光の中で、人顔も見えぬ位になっても、町
  にはまだ、電気が来ぬらしい。泊まり舟の一つに、蚊やりの燃え立っ
  てゐるだけが、何の連絡もなく、古い国、古い港に来たなぁ、と言ふ
  感じを唆った。
   はしけに移って、乗ったかと思ふと、すぐ岸の石段にあげられた。
  私に、壱岐の島の民間伝承を調べる機会と、入費とを作ってくれたの
  は、此島を出た分限者で、島の教育の為に、片肌も両肌もぬいでかゝ
  ってゐる人である。此人の教えてくれた宿屋へ、両手に持った大きな
  旅かばんを、搬んでくれる車も見えなかった。舟の上り場の立て石の
  陰から「お荷物持ちましょうか」と声をかけて、歩き寄った女の人が
  あった。舟の中の少年を、五十前後のお婆さんにした様な全体の感
  じ、お歯黒をつけた口元、背中にちんまり結んだ帯の格好、よほど暗
  くなった、屋並はづれの薄明りで、はっきり見てとったような気がす
  る。此人に荷物を負はせて、案内させながら、道々、豊かな予期がこ
  みあげて来るのを、圧へきることが出来なかった。再、此島こそ、古
  い生活の俤が、私の採訪に来るのを、待ち迎えてゐてくれたのだ、と
  いふ気がこみ上げて来た。其先ぶれが、あの少年となり、芦辺浦の風
  景となり、東京戻りの壱州人とのとり違へとなり、此中婆さんとなっ
  て、私の心に来てゐるのだ、と言ふ気がして、此港の町の狭い家並み
  に、見る物すべてに憑(タノモ)しい心が湧いた。
 山口麻太郎氏の「折口信夫博士と壱岐島」によれば、「そのお婆さんは
汽船問屋の仲仕のかみさんで、汽船が着くたび波止場に出ては、客の荷物
を持ってやっていた。平戸あたりの人だつたかと思う。気立てのやさしい
女だった。その人もその息子も既に今はいない」とある。
 そのやさしいお婆さんに案内されて、折口は旅館「清月」に着く。
「清月」は旅館「銀水」の上で、現在駐車場になつている地にあった。
   私の宿は、郷野浦の町を見おろす台地の鼻にあった。座敷の縁に出
  て、洋服のづぼん吊りを外してゐる時に、町の上くわっと明るくなっ
  たのは、電気が点いたのである。けれども私の部屋には、電燈がなか
  った。次の間にも、玄関にもない。竹の台ランプが、間もなく持ち出
  された。私の前に坐って、飯をよそうてくれる若い下女の顔。茲にも
  亦柔らいだ古い輪郭と、無知であって謙徳を示すまなざしとが備わっ
  てゐた。下女は、私の問ふに連れて、色々な話を聞かせた。
  (中略)
   壱岐名勝図誌で準備しておいた知識ではあるが、此国へ来ると、ま
  だ其地に臨まない先に、実感らしいものに浮き彫りせられて、其原因
  が捉えられそうな処まで、ちらつき出す刺激を感じた。明日は麦谷か
  ら渡良のあまの村を訪ねよう。かう思ひながら、蚊帳を跳ねてほんの
  り黴の匂ふ、併し糊気の立った蒲団の上に、身を横にした。
            


               
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