葛 の 花
                 横 山  順


          
折口信夫と壱岐 5

 最後に、折口信夫と熊本利平との関係について記しておく。
 熊本利平(1880〜1968)は、石田町印通寺浦の出身で、慶應義
塾中退後、一時同じ印通寺浦出身の松永安左ヱ門が経営する、神戸の福松
商会にいたが、朝鮮に渡り、松永を介して日本人の財界人から資金援助を
受け、朝鮮の土地数千町歩(大正十一年頃は二千五百三十五、六町歩)を
買い、熊本農場を経営する。
 熊本は郷土の教育振興にも熱心で、多額の経費を投げ打って、尽してい
る。熊本は松永安左ヱ門の妹婿であった。
 熊本の業績に関する研究は、大阪府茨木市在住の長沢利治氏による「日
本旧植民地朝鮮における熊本利平、熊本農場及び熊本利平による教育文化
事業について」(『壱岐』一三号)がある。
 折口はこの熊本利平の援助によって、壱岐へ来島するのだが、慶應義塾
に迎えられたことについては不明な点が多く、熊本を手がかりにする説が
ある。池田弥三郎の『私説折口信夫』(中公新書)がそれである。
 当時、慶應の教員で「アララギ」の歌人でもあった、横山重の推薦が十
分にあったと考えられているが、横山だけの押しでは弱いというのであ
る。
   そこで考えられるのが、「熊本利平」の存在である。そのあたりか
  ら、折口が迎えられたいきさつの、見えない糸がたぐれそうな気がす
  る。
   熊本利平は、折口の壱岐探訪記である『雪の島』一篇が、献ぜられ
  ている人である。その副題に「熊本利平に寄す」とあって、そこにそ
  の名が記されている。(中略)
   この『雪の島』は草稿であったものが、『古代研究』に納められた
  が、『古代研究』そのままの抜き刷りが紙表紙をつけて仮綴じでのこ
  されている。それは、研究費の提供者、またはその機関への報告用の
  ものでなかったかと思われる。おそらく、熊本利平に対する寄贈用の
  ものであったようである。
   熊本は、『慶應義塾百年史』によれば、大正十三年九月に実施され
  た「医学部特選研究生」の制度に寄付していることが記されている。
  (中巻の後篇、135ページ)。大正十四年度にも拠金していて、そ
  の金額は千二百円。これは、月額五十円として二か年間、一人の特選
  生の費用を負担した、ということになる。
   この、教育に熱心な、壱岐の出身者が、折口の採訪旅行の入費を提
  供したわけだが、大正十年では、まだ慶應とは深いかかわりが生じて
  いないので、どういう筋道で、折口の存在を熊本が知ったのか、とい
  うことはわからない。これについては、柳田国男、松永安左ヱ門、あ
  るいは沢柳政太郎などの仲介の推測が考えられている。(『私説折口
  信夫220ページ』
 大正八年十二月、柳田国男はそれまでの職であった、貴族院書記官長を
辞め、翌九年から民俗学研究を本格的に始める。慶應へも出向いて、講演
や講義を行う。折口もまた慶應へ出かけて、「信太妻の話」をしており、
折口と慶應との結びつきがはじまる。
   こうしたかかわりの中から、熊本の、折口への研究費援助というこ
  とが生まれ、さらにその義兄の松永安左ヱ門の耳にも、学究としての
  折口の存在が知れていたとすれば、大正十二年の兼任講師就任、さら
  に昭和三年の、専任教授就任への、理事者側の認識も、自然に道がひ
  らけることが想像される。(『私説折口信夫』222ページ)
 熊本が塾員(慶應出身者)なら、夫人もまた塾員であった。それに義兄
にあたる松永安左ヱ門も塾員だった。こうしたことから推測されるのだろ
うが、これを、はっきり裏付ける資料はない。けれど、熊本の肝いりで折
口が来島したことだけは事実である。
 折口は熊本を「分限者」あるいは「なりきん氏」と表現している。お世
辞にも敬意を払った言葉ではない。書簡をみても、感謝している風でもな
い。熊本は壱岐の教育界に対しても大変貢献したにもかかわらず、「何故
か教職員側には好まれなくなり、援助を断るというようなこともあった」
(山口麻太郎「折口信夫博士と壱岐島」5ページ)という。
                              〔完〕



      
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