葛 の 花
                  
 横 山  順


            
折口信夫と壱岐 4

 折口信夫は、大正十三年の夏に再び来島しているが、その年のことは、
はっきりしない。全集三一巻の『自選年譜』と『年譜』のどちらにも一行
も書かれていない。同全集の『書簡』にもないが、大正十三年九月十七付
で、長野の小林謹一宛のはがきがあって、その文面に、「旅から、まっく
ろになって戻ってきました」(『書簡』六三)とあるのが、壱岐旅行をい
っているのではないかと思うが、判らない。
 池田弥三郎著『私説折口信夫』の年譜には、この年のことがやや具体的
に書かれている。
   大正十三年(1924)八月、第二回壱岐採訪旅行。第一回のおり
  に旅行の費用を負担した塾員熊本利平の好意に応え、その出身地であ
  る壱岐の郡教育会主催の夏期講習会において「民間伝承学」を講義。
 山口麻太郎氏の「折口信夫博士と壱岐島」には、次のようにある。
   二度目の御来訪は大正十二年か十三年かであったろうと思う。郡教
  育会主催の夏期講習会の講師として来られたのであったが、博士のた
  めにはそれを兼ねて民潭採訪の補正が必要だったのではないか。その
  年の講習会には鳥居竜蔵博士の「極東人類学」、鯵坂(後小原)国芳
  氏の「リップスの倫理学」などもあって、折口博士は「民間伝承学」
  を講ぜられた。
   博士の民間伝承学は私も筆記した筈であるが、当時のノートをどこ
  にやったか見出ださないので、後年目良(亀久)さんに頼んで釜山か
  ら送ってもらったものがあるので、ここに原文のままを紹介する。
  「この前お話しました折口氏の講演の大要を写してお送り致しましせ
  う。今考えてみますと、もうすこしはじめの方をくわしく筆記して置
  けばよかったと思ひました。たいてい折口氏の黒板に書かれたのをそ
  のまま筆記したのでした。最初壱州の実例を沢山あげて、現在なほ残
  ってゐる信仰や伝説と古代における信仰や伝説とが一致してゐること
  ーそこに精神的な流れが見出される……と云ったやうなことがあった
  と思ひます。」
  (中略)
   民間伝承学などと私共には全くはじめてであった。郷土史の研究は
  やっていたのであるが、歴史学と考古学と地理学的、社会学的なもの
  であった。博士の講義を聞いて私共は大いに蒙を開かれたのであっ
  た。
   夜はまた博士を旅館にお訪ねした。今度は本町の平田旅館に宿泊し
  て居られた。私達は博士から民間伝承学が柳田国男先生に源を発する
  ことを聞き、先生と先生の学問にあこがれを持たされ、先生に近づく
  基となったのであった。
 次に、目良亀久氏の「思い出のかずかず」(『日本民俗誌大系』月報第
一二号=角川書店)から、引用する。
   折口信夫先生が民俗採訪に来島されたのは大正十年の夏であった。
  郷土史家の滝川敏氏や後藤正足翁の案内で村々を回られた。壱岐教育
  会主催の講演会で先生の民間伝承学の講演を山口麻太郎氏と共に聴講
  して、はじめて民間伝承学と言う学問を知った。先生の講義の魅力は
  このあと私達を民俗採集に駆り立て、爾来消長はあったが採集、研究
  共に今日に及んでいる。十三年に先生は再び来島になり、私方にも立
  ち寄られた。床の間の愛染明王のゴエ(御絵)を見て誰を祀ってある
  のかと尋ねられたので、紺屋(私の家は代々紺屋業)では愛染明王を
  信仰する旨答えるとー色町には必ずと言ってよい位愛染堂があり、女
  達が信仰するー水商売の女達も紺屋も同じ色の道と言う処ですか

  洒落を言って笑われたのが印象に残っている。先生の壱岐島民間伝承
  採訪記は昭和四年から五年にかけて民俗学誌上に発表された。
 目良氏の文章によると、民間伝承学の講演があったのは、大正十年と書
いておられる。先の折口の『書簡』五二に、「来月(九月)四日・六日・
八日と三日だけ三か処で、民間伝承の概念の講演を三時間づつ話す事にし
て置きました。」とあって、目良氏のそれと辻褄が合う。
 ならば、大正十三年にも、講演会または講習会があったのではないだろ
うかという筆者の質問に、目良氏は大正十三年にはどちらも行われなかっ
たと答えられた。
 目良氏の談話によると、熊本利平氏の後援で再び来島された、と新聞に
書いたら、折口は「自費できました」と語ったという。とにかく二度目
は、先の調査の不足を補うための来島であったろうと山口氏と同様にみて
おられる。
         

 なお、本誌の扉の名刺は、その年折口が目良氏に渡したものである。
 また郷ノ浦町里触の松嶋家にも、この年は折口が宿泊したようだと、松
嶋磐根氏は語っておられる。当時国学院の学生だった、松嶋真氏を訪ねた
わけであろう。松嶋家では、湯ノ本の海老館にも案内したように聞いてい
るとも話された。松嶋真氏と折口との結びつきを示すような書簡、日記等
は、松嶋家には何も残されていない。
 折口が大正十三年の八月に来島したことは間違いないものの、その足取
りをたどることは難しいようだ。




                
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折口信夫と壱岐5