平成13年(2001)10月、奈良の帝塚山大学で開催された日本民俗学会において、
研究発表された「要旨」を送付していただきましたので、掲載します。
(室井氏については、「山口麻太郎年譜」のページの冒頭で紹介しています。)
                                 (01.11.7)
 室井氏は、平成14年4月から3ヵ年、韓国の
蔚山ウルサン大学日語日文学科で、
日本事情」の授業を担当するために赴任されました。(02.4.4)


       
「郷土人」の民俗学

 ―山口麻太郎における地域認識の形成とその文化的要因を巡って―

           
   室 井 康 成(東京都)

【キーワード】 郷土 民俗語彙 重出立証法 壱岐島 「民族」観の形成

 山口麻太郎(1891〜1987)は、生涯のほとんどを生地である壱岐島でお
くり、同島の民俗研究に従事した在郷の篤学者である。いわゆる柳田民俗
学の確立期とされる昭和初期から研究を開始し、論著は約200点にのぼ
る。

 山口ら地方在住の学徒の多くは、柳田国男在世時の民俗学界において、
「課題なき調査・予断なき採集」を期待された「郷土人」(=「中央」へ
の資料提供者)という位置付けであった。にもかかわらず、山口ほど、今
日までその主張が引き合いに出される「郷土人」も稀であろう。

 その主張は「村の個性を尊重し、資料を村に即せしめて検討」するとい
うものだが、戦前期にあっては、民俗語彙の資料化をめぐって、また、い
わゆる「山村調査」の成果をめぐって倉田一郎や関敬吾といった「中央」
の研究者と論争する中で、民俗資料の重出立証法による全国比較が民俗学
の目的であるとする彼らから全否定される。しかし、それから約30年を経
た1970年代になると、学界の新しい潮流となりつつあった地域民俗学の先
駆として、こんどは逆に高い評価が与えられるのである。そして近年で
は、地域の個性を唱えつつも「単一民族」を前提とするという矛盾した論
理が批判されるものの、早い段階から「地域の民俗文化の差異という多文
化状況」を語り得た先行研究としての位置付けがなされている(⇒参考文
献2)。

 以上のように、生涯を通じて本質的には一貫している(⇒参考文献4)
とされる山口の主張は、その時々の民俗学をめぐる状況によって評価が異
なるという点、さらにはそれが、民俗学にとって基礎的事項のひとつであ
る地域認識にかかわる議論において再説されるという点に特徴がある。こ
れを学史的に見れば、柳田が半ば絶対視されていた時代にあって、柳田が
主導するさまざまな事業および彼に近い位置にいた研究者に対して、なぜ
山口だけが異議申立てができたのかということが問題となる。しかし1970
年代以降の山口評価論では、件の「山村調査」論争ばかりが取り上げられ、
そうした問題にまで論及した先行研究は、管見の限り見ることができない。

 山口の学問の軌跡を見てゆくと、彼の民俗研究の端緒は、壱岐島で「テ
ェモン」とよばれる禁忌の俗信をはじめとした、広義の口承文芸の採集で
あったことがわかる。これは、彼が民俗学を志向する契機となったとされ
る壱岐での「民間伝承学」の講義(1924年)で、講師の折口信夫が示した
「材料蒐集」の手順を、そのまま実行したものと考えられる。その後も、
彼は言葉(民俗語彙)によって表象がなされる伝承に強い関心を示すのだ
が、興味深いことに、やがて同じく言葉にこだわったとされる倉田一郎と
対立するのである。そこでまず、山口・倉田双方の言葉の捉え方の違いを
明らかにし、それが問題の地域認識にどう関わってくるかという点につい
て述べ、その上で、「山村調査」を巡る対関敬吾論争を考えてゆくことに
する。この時の山口・関両者の論点は、発表者なりの解釈をすれば、それ
は「郷土」概念の理解についてであるといえよう。つまり関は「郷土」に
「日本」の普遍性を見ようとし、これに対し山口は「郷土」に個性を見よ
うとしたということである。この両者の見解の相違は、単に学徒としての
立場が「中央」か「地方」在住かといった点のみならず、フィールドが調
査者にとって「他者」であるか否かといった問題をはらんでいるといえよ
う。

 かつて柳田は「郷土」で「日本」を研究するのが、本来主張してきた学
問の真意であるという趣旨の発言をしている(「郷土研究と郷土教育」19
33年)。このことから考えれば、関は柳田の方法を忠実に履行したという
ことになろう。しかし山口もまた、生涯を通じた民俗研究においては、柳
田の学問観を忠実に享受しようと努めており、実際に「日本人一般がほと
んど同じような生き方をしている事実は現在以上にはない」(「民間伝承
の地域性について」1949年)という理解などは、柳田の文化観と重合する
のである。つまり、山口にしてみれば、柳田の学問観のうち「郷土」で
「日本」をという、地域の個性を捨象した方法のみが受け入れ得ない問題
であったわけである。

 そこで本発表では、山口の学問形成の要因、とくに民俗資料の全国レヴ
ェルでの操作が志向された時代にあって、なぜ地域の個性を主張しなけれ
ばならなかったのかということや、「中央」に生起した学問の「地方」在
住学徒における受容のありかたについて、同時代の社会状況や彼がフィー
ルドとした壱岐島の文化的・地理的特性を踏まえた再検討を試み、併せ
て、彼の研究の中に多分に包含される論理展開上の矛盾(前述)が、なぜ
生じたのかといった点に関しても、鋭意理解してゆくよう努力したい。そ
して、一個人において地域認識の形成が促される上での文化的要因という
ものを、彼を例として見てゆくことにより、発表者自身が地域を考える際
の足掛かりとしたい。

【参考文献】
1.岩本 通弥「民俗・風俗・殊俗―都市文明史としての「一国民俗学」」宮田登編

      『民俗の思想』 朝倉書店 1998年

2.島村 恭則「「日本民俗学」から多文化主義民俗学へ」篠原徹編『近代日本の他者
        像と自画像』 柏書房 2001年 

3.谷川健一他『山口麻太郎著作集』1 佼成出版 1973年

4.宮田 登「地域民俗学への道」和歌森太郎編『日本文化史学への提言』弘文堂 
                        
       1975年 


        
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