室井康成
氏(東京都大田区・24歳)は、大学院在学中から山口麻太郎翁の山 口 麻 太 郎 年 譜
1891年(明治24)
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長崎県壱岐郡郷ノ浦町里触三四三において山口中一郎・リソの長男として出生(8月27日)。
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1906年(明治39) 15歳
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武生水小学校卒業(3月)。
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1907年(明治40) 16歳
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国分実業補修学校を中退し、長崎通信伝習生養成所入学。 長崎通信伝習生養成所卒業(11月)。 郷ノ浦郵便局へ就職。その後長崎郵便局へ転勤。
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1911年(明治44) 20歳
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徴兵検査を機に長崎郵便局退職(10月)。 台湾へ渡り、台湾総督府民政部通信局臨時雇となる(11月)。
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1912年(明治45・大正1) 21歳
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判任官試験合格、任官(10月)。
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1913年(大正2) 22歳
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台湾総督府夜間中学卒業(10月)。
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1914年(大正3) 23歳
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判任官依願免官(2月)。 上京して市町村雑誌社(東京芝田村町・壱岐出身の弁護士・長峰安三郎経営)へ入社。 会社近くの日比谷図書館で壱岐関係の資料を渉猟抄出に励む。 夜学「自由講座」(小石川の砲兵本廠近くの教会で開講)へ通い、生田長江のニーチェ、岩野泡鳴の婦人問題、木村葵の英文学、三木露風の万葉集などの講義を受講。更に、三木の誘いにより、国教学館(田中治吾平経営)へ転学し、三木の自由詩の講義を聴講、田園詩人を夢見る。その後、三木による詩の結社「未来社」に参加。
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1916年(大正5) 25歳
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壱岐へ帰郷(10月)。
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1917年(大正6) 26歳
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浦川ノブ(壱岐島同触の人・20歳)と結婚(3月)。 郷ノ浦の対商組・対馬商船株式会社(現九州郵船)代理店に兼任勤務し、支配人格として事務に当る。
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1921年(大正10) 30歳
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「応諾語『ナイ』の発想価値について」『壱岐民報』 「『壱岐』の名称について」『壱岐民報』(1月) 折口信夫が琉球旅行の帰途、壱岐を来訪し、壱岐郡役所書記の後藤正足の案内で島内を採訪する(夏)。目良亀久とともに旅館・清月館に滞在中の折口を訪ね、知遇を得る。 回覧の文学雑誌『饗宴』を発行。
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1922年(大正11) 31歳
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郷ノ浦の壱岐蜂蜜製酢商会を継承し、食酢の製造・酒類の卸小売を始める。また保険会社代理店としても事業拡大を図る。
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1923年(大正12) 32歳
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『饗宴』を発展させた活版誌『耕人』を発行(7号まで)、丘草平の筆名にて詩作を行う。 「末梢の世界」『耕人』3(7月) 「月と風」「相剋」『耕人』4(11月)
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1924年(大正13) 33歳
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「かがやく無く」『耕人』7(4月) 折口信夫が壱岐を再訪し、壱岐郡教育会主催の夏季講習会で「民間伝承学」の講義を行う(夏)。この講義を目良とともに受講。同講習会では、他に鳥居竜蔵が「極東人類学」、鯵坂国芳が「リップスの倫理学」を講義。平田旅館に滞在していた折口を訪ね、柳田国男の存在を教えられ、民俗学的な郷土史研究を啓蒙される。
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1925年(大正14) 34歳
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この頃、壱岐で郷土研究会が始動する(初代会長は後藤正足・元郡役所書記)。
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1926年(大正15・昭和1) 35歳
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「『天之御巣』並びに『天之新巣』について」『国語と国文学』3−6(6月) 「上代日本人の愛欲観」『国語と国文学』3−11(11月)
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1927年(昭和2) 36歳
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「記紀歌謡の形態を論ず」『国語と国文学』4−6(6月) 「記紀歌謡の形態を論ず(二)」『国語と国文学』4−7(7月)
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1928年(昭和3) 37歳
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「壱岐国テェモン集」『民族』3−4(5月) 「俳句の形式原理」『国語と国文学』5−10(10月)
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1929年(昭和4) 38歳
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この頃、考古学者・森本六爾が来訪(1929年頃との説もある)し、直接啓発を受ける。
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1930年(昭和5) 39歳
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「言葉の上から見た壱岐の農業」『壱岐日報』 「名詞代名詞に関する壱岐島方言の語法」『音声の研究』5 「壱岐方言に見ゆる古語について」『国語と国文学』7−1(1月) 「壱岐国テェモン集」『民俗学』2−5(5月) 『壱岐島方言集』(刀江書院)を刊行、東條操が序文を寄せる(7月)。 「壱岐における田の神信仰について」『旅と伝説』3−11(11月) 「壱岐島テーモン集(三)」『民俗学』2−11(11月) 「使途不明の烏帽子形石に就きて」『考古学』1-5・6(12月)
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1931年(昭和6) 40歳
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「昭和五年郷土考古学会」『壱岐日報』元旦号(1月) 壱岐畜産組合に勤務(翌年まで)。 「壱岐の言葉に於ける母音現象」『方言』1−1(1月) 「古代の『くど石』に就いて」・「スバル星の俚諺」『旅と伝説』4−2(2月) 柳田国男が釜山・対馬を経て壱岐へ来訪、平田旅館へ投宿(4月29日)。山口・目良らと対面し島内を見学。その間、柳田は沼津村黒崎の山口の実家を訪れ、山口が妹の婚礼で貰った樽や鯛の祝い綱に興味を示す(5月2日)。 「壱岐島昔話九篇」『旅と伝説』4−4(4月) 「壱岐の俗信」『民俗学』3−5(5月) 「壱岐国テーモン集」『郷土研究』5−2(5月) 「再び古代くど石に就いて」『旅と伝説』4−7(7月) 「壱岐島方言の接辞」『国語教育』16−9(9月) 「壱岐に関する文献目録(現代ノ部)」〔出典不明〕(10月)
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1932年(昭和7) 41歳
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「壱岐方言語源考」『壱州時事』元旦号(1月) 「百合若伝説と柞原神社」『壱岐日報』元旦号(1月) 「壱岐の民家」『民俗学』4−1(1月) 「『全長崎県歌謡集』を読みて」『旅と伝説』5−1(1月) 「ふた」『考古学』3−1(4月) 佐賀県馬渡島に浦丸文太郎を訪ね、同島の年中行事を調査する(5月22日)。 「馬渡島年中行事」『民俗学』4−8(8月) 「綱曳考」『郷土研究』6−2(8月) 「佐賀県馬渡島の方言」『方言』2−10(10月)
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1933年(昭和8) 42歳
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「各地の婚姻習俗・壱岐国」『旅と伝説』6−1(1月) 「壱岐の小崎蜑について」『社会経済史学』3−2(5月) 雑誌『島』(柳田編)の同人となる(5月)。 「動物に関する壱岐の俗信」『郷土研究』7−5(5月) 壱岐へ帰郷中の松永安エ門に招かれ、郷土研究の研究補助費用の援助を約束される(7月4日)。これ以後、郷土研究に専念する。 自宅に「郷土研究所」を開設(8月1日)。
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1934年(昭和9) 43歳
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「壱州牛に就いて」『壱岐日報』元旦号(1月) 「壱岐に於ける講中の研究」『社会経済史学』3−11(3月) 『壱岐島民俗誌』(一誠社 4月)を刊行。 「壱岐の古文献を訪ねて」『島』前期(4月) 『百合若説教』(一誠社)刊行。
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1935年(昭和10) 44歳
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「壱岐島年中行事」『旅と伝説』8−1(1月) 「飯櫃雑考」『史談と民俗』4(1月) 「方言副詞の形態に就いて」『国学院雑誌』41−3(3月) 「壱岐方言助詞法」『国語教育』20−2・3(3月) 『壱岐島昔話集』(郷土研究所)を刊行し、柳田国男が序文を寄せる(6月)。 「壱岐に於ける無尽(頼母子講)の研究(上)」『社会経済史学』5−3(6月) 「壱岐に於ける無尽(頼母子講)の研究(下)」『社会経済史学』5−4(7月) 「壱岐方言の動詞法、助動詞法」『国語と国文学』137(9月) 民間伝承の会(日本民俗学会の前身)へ入会(10月)。 『民間伝承』3「会員通信」に神社への関心がある旨を報告する(11月)。 『民間伝承』4「会員通信」に『産育習俗語彙』の誤りを指摘する(12月)。 愛育会へ「壱岐国に於ける妊娠出産育児に関する民俗調査報告書」・「対馬島厳原町並に近在に於ける妊娠出産育児に関する調査報告書」を提出。
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1936年(昭和11) 45歳
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「お年柱」『壱岐日報』元旦号(1月) 「昔話雑考」『旅と伝説』9−4(4月) 「酒造とかしはの葉」『民間伝承』9(5月) 「蜑と犬神」『民間伝承』10(6月) 「民族資料としての掛声」『民間伝承』2−3(11月)
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1937年(昭和12) 46歳
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「横座と本尻」『壱岐日報』(1月) 「くど」『壱岐日報』(1月) 「火の神」『壱岐日報』(1月) 「壱岐の女」『壱岐日報』(1月) 『続壱岐島方言集』(春陽堂)を刊行、東條操が序文を寄せる(2月)。 「魏志倭人伝の訓読に就いて」『壱岐日報』(2月) 「村々の先賢功労者」『壱岐日報』(2月) 「吉野秀政翁」『壱岐日報』(3月) 対馬からの帰途に来訪した鈴木棠三と面会し、目良とともに島内を案内(5月)。 「若者組に於ける年齢制の意義(壱岐に於ける事例)」『社会経済史学』7−2(5月) 「中上長平翁伝」「大久保良三氏の事蹟」「吉野秀政翁略伝」を長崎県社会教育課編『郷土先賢伝』に寄稿。 「カンダラ異考」『民間伝承』3−4(12月)
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1938年(昭和13) 47歳
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「壱岐産牛史」『社会経済史学』7−11(2月) 「民俗学の対象」『民間伝承』3−7(3月) 「カンダラ追考」『旅と伝説』11−3(2月) 「壱岐島分寺の研究」を角田文衛編『考古学論叢・国分寺の研究』下に寄稿。 「壱岐国地名考」『歴史地理』(10月)
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1939年(昭和14) 48歳
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「聖戦第三年の年頭に際して」『壱岐日報』(1月) 「壱岐郷学に就いて」を『長崎県教育史』へ寄稿。 「勝本浦の漁村生活について」『民間伝承』4−6(3月) 『民間伝承』4−7「会員だより」に、長崎県教育史の編纂に民俗学的方法を用いるよう主張したが受け入れられなかった旨を報告(4月)。 「親の子に対する教育」『民間伝承』4−8(5月)。 「民俗資料と村の性格」(『民間伝承』4−9)を発表し山村調査を批判、関敬吾と議論を交わす。また同号に「味噌買橋の類話」を寄稿(6月)。 『民間伝承』4−10「会員だより」に、柳田の民俗分類のうち第三部に今少しの余地がある旨を指摘する(7月)。 「壱岐勝本浦の漁村生活(一)」『社会経済史学』9−4(7月) 「壱岐勝本浦の漁村生活(二)」『社会経済史学』9−5(8月) 「再び民俗資料と村の性格に就いて」(『民間伝承』5−2)を発表、山村調査の形式を巡って関と論戦する(11月)。
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1940年(昭和15) 49歳
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「皇紀二千六百年の輝かしき年頭に際し」『壱岐日報』(1月) 上京し、第144回木曜会(柳田主宰)に出席する(5月12日)。 「壱岐国勝本浦の史的考察」『歴史地理』75−6(6月)を発表。 『民間伝承』5−9「問答」で、海村調査における郷党の陶冶力の採集方法について尋ねる(6月)。 壱岐史蹟名勝天然記念物保護顕彰会が発足(6月10日)。
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1941年(昭和16) 50歳
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「壱岐史蹟顕彰会は発足す」『壱岐日報』(1月) 「対馬のカンダラ」『民族文化』2−1(1月) 「壱岐国学に就いて」・「壱岐に於ける流人と庶民の教育訓育に就きて」を『長崎県教育史』へ寄稿。 「猿地蔵の一異例について」『ひだびと』9−3(3月) 「日本海大海戦と郷土」『壱岐日報』(5月) 「壱岐に於けるヤボサ神の研究(上)」『国学院雑誌』47−6(6月) 「壱岐に於けるヤボサ神の研究(下)」『国学院雑誌』47−7(7月) 『民間伝承』6−10の「会員通信」に、平戸へ行き白山姫神社で行われた平戸神楽を見物した旨を報告する(7月)。 『民間伝承』6−12の「会員通信」に、壱岐において郷土研究に関する雑誌を発刊したいが、折からの紙不足のため困難である旨を報告する(9月)。 「壱岐に於ける宝篋印塔に就きて」『筑紫史談』79(9月)
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1942年(昭和17) 51歳
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民間伝承の会から委託された「食習調査」のため対馬に渡る(1月20日)。 対馬から壱岐へ帰島(1月25日)。 民間伝承の会へ「食習採集手帳」(壱岐国沼津村黒崎・対馬国佐須村下原)を提出。 「桃太郎と黍団子」『民族文化』3−4(4月) 「壱岐の食習」『民間伝承』8−2(6月) 上京し、渋沢敬三が主宰するアチックミュージアムを訪れる(夏頃か)。
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1943年(昭和18) 52歳
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「イロリとクド」『ひだびと』11−1(1月) 鹿児島民俗研究会の野間吉夫らと九州民俗の会を結成(2月)。 「壱岐における畑の形態に就きて」『民間伝承』8−12(4月) 壱岐中学校で「神功皇后様と軍越神事」を講演(6月)。 「部落生活における労働組織」『民族学研究』1−7(7月) 「教育技法としての諺」『民間伝承』9−5(9月) 「教育技法としての諺(二)」『民間伝承』9−6・7(11月) 「軍越神事考」『旅と伝説』16−11(11月) 壱岐中学校思想対策研究会で「壱岐島民性の研究」を研究発表(11月)。 『壱岐島昔話集』を改定し、同書名にて柳田・関が指導する『全国昔話記録』編纂事業の一環として三省堂から出版(12月)。 「教育技法としての諺(三)」『民間伝承』9−8(12月)
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1944年(昭和19) 53歳
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壱岐中学の臨時代用教員となり東洋史を担当、主に中国古代史を講義する。この頃、戦争のため郷土研究所の維持が困難になってくる。 「壱岐に於ける弥生遺跡の分布と原ノ辻包含地」『考古学』1(1月) 「壱岐に於ける村の神と家の神」『民間伝承』10−1(1月) 壱岐中学校思想対策研究会で「民間教育の伝統」を研究発表(1月) 「輪注連の標識」・「出産の村のモノイミ」・「壱岐に於ける村の神と家の神(二)」『民間伝承』10−2(2月) 柳田国男が山口からの「金をうけとった」という旨の手紙を受け取る(2月14日)。 「日本における民間教育の伝統」『国学院雑誌』50−4(5月) 高崎正秀(後に國學院大学教授)が柳田の自宅に、山口の論文「壱岐に於けるヤボサ神の研究」(『国学院雑誌』)の抜刷5冊を届ける(7月7日)。
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1945年(昭和20) 54歳
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武生水町母親学級で「日本の女」を講演(2月)。 柳田国男にスルメ・干大根・薯切干などを送る(3月)。 壱岐高等女学校で「『ゆい』の話」を講演(10月) 第1回現地史談会で「波多氏と壱岐」を研究発表(12月)。
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1946年(昭和21)
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柳田村青年団大会で「村の生活」を講演。 第3回現地史談会で「壱岐の開発と印通寺浦」を研究発表(3月)。 壱岐病院文化講座で「壱岐国図に就きて」を講演(7月)。 壱岐病院文化講座で「壱岐に於ける医療の今昔」を講演(7月)。 新典青年大会で「青年に愬ふ」を講演(8月) 第1回社会経済史談会で「安国寺蔵大般若経の研究」を研究発表(9月)。 壱岐病院文化講座で「日本の家と女」を講演(11月)。 「壱岐島案内図」を壱岐対馬物産展示会に出陳(11月)。 図書館事務講習会で「郷土研究の目的と方法」を講演(11月)。 第2回社会経済史談会で「百姓一揆犬狩騒動に就きて」を研究発表(12月)。
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1947年(昭和22) 56歳
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「オヤの社会性に就いて」『日本民俗学のために』2(2月) 公立壱岐病院の談話会で「日本人と日本の神との関係」を講演(6月)。 民俗学研究所(柳田主宰)の研究員を申し込み、研究テーマを「ことわざの研究」とする(9月)。
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1948年(昭和23) 57歳
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『民間伝承』12−1「会員通信」に、民俗学研究所の財団法人化に賛成する旨を報告する(1月)。 「シモリ鯨考」『民間伝承』12−2(2月) 「日本人と米」『民間伝承』12−3・4。また同号の「通信」に、雑誌『評論』に掲載された志村義雄「柳田民俗学の史観」を批判する(4月)。
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1949年(昭和24) 58歳
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「お正月とは何か」『壱岐日報』(1月) 「創刊のことば」・「壱岐に於ける共同田植の例三つ」・「平戸藩における流物・寄物の取り扱ひに就きて(上)」『村落生活の研究』1−1(1月) 「農村金づまりの実態如何」『壱岐日報』(3月) 「平戸藩に於ける流物寄物の取扱ひに就きて(下)」・「車田といふ地名」『村落生活の研究』1−2(3月) 民間伝承の会から改称された日本民俗学会の評議員となる(4月) 「壱岐に於ける共同田植の例三つ(二)」・「壱岐国柳田村の研究(一)」『村落生活の研究』1−3(5月) 「壱岐に於ける共同田植の実例三つ(三)」・「壱岐国柳田村の研究(二)」『村落生活の研究』1−4(7月) 「民間伝承の地域性について」『民間伝承』13−10(10月)を発表。 「壱岐国柳田村の研究(三)」『村落生活の研究』1−5・6(10月)
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1950年(昭和25) 59歳
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「本郡に於ける史蹟名勝天然記念物の保護顕彰について」『壱岐日報』 「盗み」『村落生活の研究』2−1(1月) 「村とは」・「『シメボシ』から『シルシ』へ」『村落生活の研究』2−2(3月) 「村と家」『村落生活の研究』2−3(5月) 「百姓一揆『犬狩騒動』の研究」『村落生活の研究』2−4(7月) 渋沢敬三が、九学会連合による対馬調査の帰途、壱岐を来訪し、平田旅館へ投宿する(8月6日)。翌日、島内を渋沢に案内する。 渋沢が博多経由で帰京、西角井正慶・鈴木棠三が壱岐を来訪し郷土研究所に立ち寄る(8月8日)。 宮本常一が壱岐に来訪し、漁村文書を調査(8月20日〜25日)。 森浩一が壱岐を来訪(8月22日)。 「壱岐島に関する文献目録」『村落生活の研究』2−5(9月) 「壱岐島村落の散村性について」『壱岐教育』1(10月) 日本民俗学会評議員に再任される(10月)。 武生水町立公民館長・武生水図書館長に就任(11月)。 「壱岐」を平凡社児童百科辞典編纂係に提出(11月)。 「壱岐島の観光資源に就いて」『壱岐日報』 教職員組合地歴研究部会で「日本民俗学の外貌」を講演。
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1951年(昭和26) 60歳
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「新年なやみ多し」『壱岐日報』381(1月) 「新年なやみ多し(2)」『壱岐日報』382(1月) 「成人の日に寄する」『壱岐日報』384(1月) 「壱岐の大豆作を憂う」『壱岐日報』412(4月) 壱岐地区保護司会理事兼主幹に就任(6月) 勝本町成人講座で「壱岐の開発発展と勝本浦」を講演。 図書館事務講習会で「郷土資料の蒐集について」を講演。 壱岐教育会年会で「壱岐島村落の散村性について」を発表。 宮本常一が対馬調査の帰途に壱岐を来訪(8月11日〜14日)。 日本民俗学会年会(於國學院大学)で「壱岐島に於ける村落の形態に就いて」を研究発表(10月)。 武生水公民館読書会で日本民俗学会年会の事後報告を行う(10月25日)。 長崎県教育委員会より文化特別功労者として表彰される(11月3日)。 県文化特別功労者の祝賀茶話会が公民館で開かれる(11月25日)。 壱岐史蹟顕彰会会長に就任(12月)。
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1952年(昭和27) 61歳
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「としだま」『壱岐日報』467(1月) 「曾良ははたして壱岐で死んだか」『壱岐高校新聞』(1月) 地方史研究協議会委員となる(4月)。 山口の「壱岐国古記録・古文書集成の編纂」計画に対し、文部省から科学研究助成補助金が支給される(5月)。 社会経済史学会(於九州大学)で「壱岐島農業の生産力と所用労働量について」を研究発表(5月)。 壱岐島考古学調査団(水野清一・金関丈夫ら)が来島(7月23日〜8月15日)。 上京して渋沢敬三宅を訪問し、邸内を宮本常一に案内される(時期不詳)。
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1953年(昭和28) 62歳
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「昭和廿八年に期待する」『壱岐日報』637(1月) 武生水図書館・公民館に常勤する(4月)。 離島振興法公布(7月)。 「健全な発達を」『民間伝承』17−7(7月) 壱岐郡町村会長(平田庄次郎)・同教育委員会協議会長(原周蔵)宛に郷土館建設の進言書を提出(8月)。 折口信夫死去(9月3日)。 宮本常一が全国離島振興協議会の初代事務局長に就任(10月)。 九州民俗学大会に出席のため、福岡へ赴く(11月22日)。
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1954年(昭和29) 63歳
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墓参のため帰島した松永安左エ門と会い、郷土館建設について意見を交換する(5月) 「郷土を思う松永先生の大きな事蹟」『壱岐日報』627(5月) 「離島壱岐のなやみ」『しま』4(10月)
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1955年(昭和30) 64歳
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柳田国男・橋浦泰雄らとともに日本民俗学会名誉会員に推戴される(10月)。 「詩人松本満夫君」『老松』創刊号(刊行月不詳) 壱岐日報社とともに座談会「青年は如何に考へ、何を希望するか」を開催(12月)。
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1956年(昭和31) 65歳
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長崎県知事より表彰される。 「祇園山について」『壱岐日報』785(7月) NHK第2放送の番組「方言の旅」で、山口の「壱岐の方言について」が放送される(9月16日)。 日本民俗学会評議員に選出される(10月)。 「郷土ものがたり(一)流人列伝」『壱岐日報』804(10月) 「郷土ものがたり(二)流人列伝」『壱岐日報』805(11月) 「郷土ものがたり(三)流人列伝」『壱岐日報』806(11月) 「郷土ものがたり(四)流人列伝」『壱岐日報』807(11月) 「郷土ものがたり(五)流人列伝」『壱岐日報』808(11月) 「郷土ものがたり(六)流人列伝」『壱岐日報』809(11月) 「郷土ものがたり(七)流人列伝」『壱岐日報』810(11月) 「郷土ものがたり(八)流人列伝」『壱岐日報』811(12月) 「郷土ものがたり(九)流人列伝」『壱岐日報』812(12月)
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1957年(昭和32) 66歳
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「各地の正月雑煮・長崎県壱岐郡郷ノ浦町」『岡山民俗』26(4月) 「各地の盆行事・長崎県壱岐郡」『岡山民俗』28(10月) 「村の青年たちのカウンセラーは(一)」『壱岐日報』875(10月)。 「村の青年たちのカウンセラーは(二)」『壱岐日報』876(11月)。 結婚40年を記念して『平戸藩法令規式集成』(壱岐郷土史料刊行会)の刊行を開始する。 『平戸藩法令規式集成(上)』を刊行(11月)。 「壱岐の婦人たちは愬える@」『新壱岐』485(11月) 「壱岐の婦人たちは愬えるA」『新壱岐』486(11月) 「壱岐の婦人たちは愬えるB」『新壱岐』487(11月) 「本を読む婦人たち(一)」『壱岐日報』886(12月)
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1958年(昭和33) 67歳
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「楢山倫理」『壱岐日報』886(1月) 「汽車の中にて」『壱岐新聞』96(1月) 「汽車の中にて(二)」『壱岐新聞』97(1月) 「本を読む婦人たち(二)」『壱岐日報』892(1月) 「本を読む婦人たち(三)」『壱岐日報』893(2月) 「本を読む婦人たち(四)」『壱岐日報』894(2月) 『平戸藩法令規式集成(中)』を刊行(3月)。 『平戸藩法令規式集成(下)』を刊行(4月)。 「『はそう』という土器が出た」『壱岐日報』932(8月) 武生水公民館長・同図書館長を退職(9月)。 「神漂着の伝説について」『壱岐の島』 「壱岐の島の道祖神」『民俗』33(11月) 「古い事、新しい事(一)」『壱岐日報』951(11月) 「古い事、新しい事(二)」『壱岐日報』952(11月) 「古い事、新しい事(三)」『壱岐日報』953(12月) 「古い事、新しい事(四)」『壱岐日報』954(12月) 「古い事、新しい事(五)」『壱岐日報』955(12月) 「古い事、新しい事(六)」『壱岐日報』956(12月) 「古い事、新しい事(六)」『壱岐日報』957(12月)
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1959年(昭和34) 68歳
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『壱岐日報』紙上で目良亀久と「正月行事を語る」と題した対談を行う(1月)。 「初夢農業宝船−農業法人は夢か」『壱岐日報』958(1月) 「古い事、新しい事(八)」『壱岐日報』959(1月) 「古い事、新しい事(九)」『壱岐日報』960(1月) 「古い事、新しい事(十)」『壱岐日報』961(1月) 「古い事、新しい事(十一)」『壱岐日報』962(1月) 「古い事、新しい事(十二)」『壱岐日報』963(1月) 「昔話以前<長崎>」『民話』6(3月) 「農試分場は何処へ行く」『壱岐民報』978(4月) 「農試分場は何処へ行く(2)」『壱岐民報』979(4月) 「離島教育の振興はこれでよいか」『壱岐民報』987(5月) 「罪人を作らぬ社会−社会を明るくするために」『壱岐日報』997(7月) 「吉野秀政翁採集の民話」『民話』10(7月) 「見たこと聞いたこと(1)」『壱岐日報』1020(11月) 「見たこと聞いたこと(2)」『壱岐日報』1021(11月) 「見たこと聞いたこと(3)」『壱岐日報』1022(11月) 「見たこと聞いたこと(4)」『壱岐日報』1023(11月) 「初期日本捕鯨の諸問題」『社会経済史学』25−5(12月)
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1960年(昭和35) 69歳
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「山河もの言わず」『壱岐日報』1029(1月) 「二月の年中行事」『壱岐日報』1036(2月) 「三月の年中行事」『壱岐日報』1041(3月) 「婦人の自由時間に(一)」『壱岐日報』1049(4月) 「婦人の自由時間に(二)」『壱岐日報』1050(4月) 郷ノ浦郵便局の一日局長になる(4月20日)。 「壱岐安国寺蔵大般若経について(1)」『壱岐日報』1054(5月) 「壱岐安国寺蔵大般若経について(2)」『壱岐日報』1055(5月) 「壱岐安国寺蔵大般若経について(3)」『壱岐日報』1056(5月) 「壱岐安国寺蔵大般若経について(4)」『壱岐日報』1057(5月) 「壱岐の百姓一揆@犬狩騒動について」『壱岐日報』1060(6月) 「壱岐の百姓一揆A犬狩騒動について」『壱岐日報』1066(6月) 「壱岐の百姓一揆B犬狩騒動について」『壱岐日報』1067(6月) 「壱岐の百姓一揆C犬狩騒動について」『壱岐日報』1068(6月) 「壱岐の百姓一揆D犬狩騒動について」『壱岐日報』1069(6月) 「壱岐の百姓一揆E犬狩騒動について」『壱岐日報』1070(7月) 「壱岐の百姓一揆F犬狩騒動について」『壱岐日報』1071(7月) 「壱岐の百姓一揆G犬狩騒動について」『壱岐日報』1072(7月) 「壱岐の百姓一揆H犬狩騒動について」『壱岐日報』1073(7月) 「壱岐の百姓一揆I犬狩騒動について」『壱岐日報』1074(7月) 「壱岐の百姓一揆J犬狩騒動について」『壱岐日報』1075(7月) 「更正保護婦人会の発足に期待する(1)」『壱岐日報』1073(7月) 「更正保護婦人会の発足に期待する(2)」『壱岐日報』1074(7月) 壱岐日報社主幹に就任(8月)。 「郷ノ浦祇園山異変」『壱岐日報』1077(8月) 「史前時代の壱岐の家畜と諸動物(1)」『壱岐日報』1082(9月) 「史前時代の壱岐の家畜と諸動物(2)」『壱岐日報』1083(9月) 「史前時代の壱岐の家畜と諸動物(3)」『壱岐日報』1084(9月) 「史前時代の壱岐の家畜と諸動物(4)」『壱岐日報』1085(9月) 「史前時代の壱岐の家畜と諸動物(5)」『壱岐日報』1086(9月) 「鼻毛の観音は」〔丘草平名〕『壱岐日報』1087(9月) 石坂泰三が来島し、山口が壱岐島内を案内(11月17日)。 「平戸藩礼者制度について」『地方史研究』10−6(12月)
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1961年(昭和36) 70歳
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「志原から出た銭壷−海賊真弓氏の匿物か」『壱岐日報』1108(1月) 「平戸藩地割制度の起源」『社会と伝承』5−2(6月) 「壱岐郷土研究所と私」『壱岐日報』1146(7月)
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1962年(昭和37) 71歳
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目良嘉弘(壱岐新聞社長)らと「新春放談−選挙、観光あれこれ」と題し、対談する(『壱岐日報』1176 1月)。 「安国寺と白華和尚」『壱岐日報』1177(1月) 「安国寺と白華和尚」『壱岐日報』1178(1月) 「安国寺と白華和尚」『壱岐日報』1179(1月) 「安国寺と白華和尚」『壱岐日報』1180(1月) 「安国寺と白華和尚」『壱岐日報』1181(1月) 長崎文化賞(長崎新聞社)受賞。同賞授賞式(於長崎市・長崎グランドホテル)に出席(1月23日)。 盈科小学校で、長崎文化賞受賞の祝賀会が壱岐史蹟顕彰会の主催で行われる(1月28日)。 「安国寺と白華和尚」『壱岐日報』1182(2月) 「安国寺と白華和尚」『壱岐日報』1183(2月) 「安国寺と白華和尚」『壱岐日報』1184(2月) 「安国寺と白華和尚」『壱岐日報』1185(2月) 「安国寺と白華和尚」『壱岐日報』1187(2月) 「安国寺と白華和尚」『壱岐日報』1188(3月) 「安国寺と白華和尚」『壱岐日報』1189(3月) 「安国寺と白華和尚」『壱岐日報』1190(3月) 「安国寺と白華和尚」『壱岐日報』1191(3月) 上京し、NHKのテレビ番組「ここに鐘は鳴る」に柳田・桜田勝徳・松本信広らとともに出演(3月22日)。東京を離れる際、近畿民俗学会の沢田四郎作に「(柳田)先生のお姿を拝してもう二度と会えないような気がして心重く帰島します」という旨の手紙を渡す。 「安国寺と白華和尚」『壱岐日報』1194(4月) 「安国寺と白華和尚」『壱岐日報』1195(4月) 「安国寺と白華和尚」『壱岐日報』1196(4月) 「安国寺と白華和尚」『壱岐日報』1197(4月) 「安国寺と白華和尚」『壱岐日報』1204(5月) 「安国寺と白華和尚」『壱岐日報』1205(5月) 壱岐日報社社長に就任(6月)。 「安国寺と白華和尚」『壱岐日報』1209(6月) 「安国寺と白華和尚」『壱岐日報』1210(6月) 「安国寺と白華和尚」『壱岐日報』1213(7月) 「安国寺と白華和尚」『壱岐日報』1215(7月) 「日報俳壇」に丘草平名で俳句を投稿(『壱岐日報』1213 7月) 宮本常一が芳賀日出男・安永稔和を伴い壱岐へ来訪(8月1日)。 宮本が対馬へ渡る(8月3日)。 宮本が再び来訪し、郷ノ浦の盈科小学校で講演(8月5日)。 柳田国男死去。宮本が鯨伏小学校・芦辺町公民館で講演(8月6日)。 宮本が石田町公民館で開催された夏季農民大学で講演、夕方に妻島へ渡る(8月7日)。 宮本らが壱岐を離れる(8月8日)。 「子供のアソビゴトとアソビモノ」『民芸手帖』51(8月) 「安国寺と白華和尚」『壱岐日報』1218(8月) 「安国寺と白華和尚」『壱岐日報』1220(8月) 「安国寺と白華和尚」『壱岐日報』1223(8月) 「安国寺と白華和尚」『壱岐日報』1224(9月) 日本民俗学会評議員任期満了(10月)。 「折口博士と壱岐島」を横山登美子・安池正雄編『折口信夫まんだら』(鈴木私家版)に寄稿(10月)。
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1963年(昭和38) 72歳
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「田植に関する習俗」を『無形の民俗資料 記録第12集』(平凡社)へ寄稿。 「壱岐の民芸」『壱岐日報』1276(6月) 曾良忌俳句大会で献句『壱岐正論』531(6月) 「日報俳壇」に俳句を投稿『壱岐日報』1293(8月) 「日報俳壇」に俳句を投稿『壱岐日報』1294(9月) 「日報俳壇」に俳句を投稿『壱岐日報』1295(9月) 「日報俳壇」に俳句を投稿『壱岐日報』1305(10月) 渋沢敬三死去(10月25日)。 「万葉集と壱岐の島」『壱岐日報』1310(11月) 「日報俳壇」に俳句を投稿『壱岐日報』1311(11月)
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1964年(昭和39) 73歳
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第1回史談会(於郷ノ浦中央公民館)で「壱岐農業史の諸問題」を研究発表(2月15日)。 第2回史談会で「壱岐の鍬と鋤について」を研究発表(3月14日)。 三木露風死去(3月29日)。 「日報俳壇」に俳句を投稿『壱岐日報』1356(7月) 「日報俳壇」に俳句を投稿『壱岐日報』1375(10月) 「渋沢先生の憶い出」『近畿民俗』35(8月)
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1965年(昭和40) 74歳
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「喪正月」と題した俳句を『壱岐日報』1387へ投稿(1月) 「元旦試吟」と題した俳句を『壱岐日報』1389へ投稿(1月) 第10回史談会で「鮑漁業について」を研究発表(2月27日)。 「教師たちの郷土研究−『島の科学』第一号刊行」『壱岐日報』1407(4月) 第13回史談会で「明治初年の農業指導」を研究発表(5月29日)。 第16回史談会で「壱岐商業史雑考(近世)」を研究発表(8月28日)。 第18回史談会で「サネモリ祈祷の問題点」を研究発表(11月27日)。
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1966年(昭和41) 75歳
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『壱岐島産牛史の研究』(壱岐畜産組合)を刊行する。 第19回史談会で「壱岐の国学、流人の及ぼした庶民の教育の問題及び郷学校の問題について」を研究発表(1月29日)。 「壱岐方言の相似線を求めて」『島の科学』3(2月) 第21回史談会で「壱岐の家と住いについて」を研究発表(3月19日)。 「新刊紹介・文芸雑誌『孤島』創刊号」『壱岐日報』1476(4月) 第22回史談会で「住いに於ける火と水について」を研究発表(4月24日)。 第23回史談会で「壱岐に於ける中世の歴史について」と題して目良と対談(5月28日)。 第25回史談会で「永禄・明暦両田帳について」を研究発表(10月29日)。
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1967年(昭和42) 76歳
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「壱岐商校の郷土研究」『壱岐日報』1591(1月) 3000余点の収集資料を、長崎県立図書館・美術博物館へ無償寄贈する。 この頃、郷ノ浦から黒崎の生家へ転居する。 壱岐文化調査委員会編『壱岐島年中行事』刊行 第27回史談会で「芦辺浦と海通丸」を研究発表(2月12日)。 「農家の屋敷と屋敷木」『島の科学』4(2月) 「壱岐の定期市について」『壱岐』3(3月) 「天正の壷」『地方史研究』17−5(10月) 「詩歌集『玄涛曲』を読みて」『壱岐日報』1591(11月)
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1968年(昭和43) 77歳
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「消え去ろうとする壱岐の伝統農法」『島の科学』5(1月) 「壱岐文化の百年(1)〜(65)」『壱岐日報』1617(4月)〜1681(1969年2月) 「壱岐の人達に是非読んでもらいたい二書」『壱岐日報』1636(7月)
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1969年(昭和44) 78歳
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「壱岐の島にお迎えした柳田先生」を『定本柳田国男集』第9巻(筑摩書房)「月報」9へ寄稿(2月) 「方言発掘(1)〜(107)」『壱岐日報』1684(3月)〜1824(1971年3月) 「壱岐島民俗採訪記(一)」『壱岐』5(7月) 壱岐日報社長退職(同年末)。
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1970年(昭和45) 79歳
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「地方別調査の現況・長崎県」『日本民俗学』67(1月) 「石ものがたり(1)〜(25)」『壱岐日報』1764(4月)〜1807(12月) 「壱岐島民俗採訪記(二)」『壱岐』6(6月) 「盆踊りから盆綱引へ」『民間伝承』34‐3(11月) 壱岐を来訪した瀧川政次郎に島内を案内する(11月)。
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1971年(昭和46) 80歳
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「壱岐島盆綱引起源考」『島の科学』8(1月) 壱岐文化調査委員会編『壱岐島古民謡わらべ唄』刊行(2月)。 第1回壱岐郡文化功労賞受賞(3月)。 壱岐日報社社長を辞任(3月)。 「御挨拶」『壱岐日報』1830(4月) 慶応大学付属病院に入院中の松永安左エ門を見舞う(6月10日)。 松永安左エ門死去(6月16日)。 石田町の碧雲荘で開催された座談会「松永安左エ門翁をしのぶ」に参加(7月22日)。 「壱岐島民俗採訪記・3」『壱岐』7・8(9月) 壱岐日報社主催の座談会「壱岐を考える」に出席(12月)。
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1972年(昭和47) 81歳
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鈴木棠三が2度に亘り壱岐を来訪。 谷川健一が壱岐を来訪するも、山口は県庁に出掛けていたため不在(初夏)。 長崎県教育委員会が実施する民俗緊急調査(文化庁後援)の主任となり、対馬に渡る(8月5日〜10日)。厳原町阿連・仁田村志田留を調査する。 「壱岐島民俗採訪記(四)」『壱岐』9(9月) 小井川潤次郎・橋浦泰雄とともに再び日本民俗学会名誉会員に推戴される(10月)。 『日本の民俗・長崎』(第一法規出版)を刊行(12月)。 壱岐文化協会設立発起人会が発足し、壱岐史蹟顕彰会を代表して参加(12月)。
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1973年(昭和48) 82歳
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「老境」『壱岐日報』1953(1月) 「壱岐島流人の願い遠島」『島の科学』10(1月) 「壱岐郷土研究所」を『松永安左エ門翁の憶い出・中』に寄稿(6月)。 「筒城浜の開発について」『壱岐日報』2016(11月) 鈴木棠三・谷川健一・和歌森太郎編『山口麻太郎著作集・1(説話篇)』(佼成出版社)刊行(11月)。 壱岐日報社主催の座談会「勲章は語る」(於壱岐日報社)に出席(12月)。
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1974年(昭和49) 83歳
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「振り子のくるい」『壱岐日報』2024(1月) 「本田三右衛門」・「壱岐の鶴」『壱岐』10(2月) 『山口麻太郎著作集・3(歴史民俗篇)』刊行(3月)。 郷ノ浦で全国離島振興協議会大会が開催され、宮本常一が来訪(5月22日)。 宮本が対馬へ渡る(5月23日)。 「キネカケ祭について」『日本民俗学』93(6月) NHK長崎放送局の「百合若伝説について」が放映され出演(7月12日)。 NHK長崎放送局の「郷土学」が放映され出演(7月20日)。 「風来人(1)」『壱岐日報』2064(7月) 「風来人(2)」『壱岐日報』2065(7月) 「風来人(3)」『壱岐日報』2066(8月) 「風来人(4)」『壱岐日報』2068(8月) 「流人列伝」『春一番』(壱岐文化協会)創刊号 「郷土学の必要性と可能性を考える」『日本民俗学』95(9月) 『西海の伝説』(第一法規出版)を刊行(9月)。 「郷土学を提唱する」『西日本新聞』(11月) 『九州の衣と食』(共著・明玄書房)を刊行(11月)。 第33回西日本文化賞(西日本新聞社)を受賞(11月3日)。 壱岐観光会館で西日本文化賞受賞祝賀会が開催される(12月24日)。
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1975年(昭和50) 84歳
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「『郷土学』の提唱」『壱岐日報』2095(1月) 『山口麻太郎著作集・2(方言と諺篇)』刊行(2月)。 壱岐文化財調査委員会編『壱岐の民間信仰神』刊行(3月)。 三木首相の「芸術文化に活躍された人との懇話会」に招かれ、首相官邸を訪問する(3月27日)。 「壱岐島分寺の零落課程」・「船橋架橋記念碑の謎」『壱岐』11(3月) 「その後の展開」を『日本民俗誌大系』(角川書店)第2巻『月報』8へ寄稿(4月)。 「民間伝承学と重出立証私見」『季刊柳田国男研究』8(4月) 「郷土学を提唱」『民間伝承』39−1(4月) 『九州の歳時習俗』(共著・明玄書房)を刊行(7月)。 「郷土と民間伝承について」『日本民俗学』100(8月) 勲五等瑞宝章を授与される(10月)。
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1976年(昭和51) 85歳
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「野性号のあとに」『壱岐』12(1月) 「新春のお慶びを申し上げまして貴家の御多幸を祈り上げます」『民間伝承』40-1(4月) 「百姓源蔵の直訴事件について」『地方史研究』26−2(4月) 「百姓源蔵の真相を考える」『島の科学』13(2月)
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1977年(昭和52) 86歳
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「或印通寺仏の一人について」『島の科学』14(2月) 「仙腰a尚の壱岐の詩」・「壱岐島の式内社海神社について」『壱岐』13(2月) 「民俗誌私論」『日本民俗学』113(9月)
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1978年(昭和53) 87歳
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司馬遼太郎「街道をゆく〜壱岐・対馬のみち」が『週刊朝日』に連載され、山口について「壱岐の民俗学を最初にひらいた在郷の篤学者」と記す(2〜8月)。 日本民俗学会の第1回会員選挙で評議員に選出される(3月)。 「島と島民文化」『島の科学』15(3月) 『九州の祝事』(共著・明玄書房)を刊行(6月)。 『九州の祝事』の原稿料により、妻ノブとともに九州一周旅行へ出掛ける。 「郷土生活の伝承性について」『日本民俗学』118(8月)
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1979年(昭和54) 88歳
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「七福神について」『地方史研究』29−1(2月) 「壱岐瀬戸港の地理と歴史」『島の科学』16(3月) 『壱岐島明治文化史』(壱岐文化協会)を刊行(3月)。 『九州の葬送・葬制』(共著・明玄書房)を刊行(4月)。 「新春おめでとう」『民間伝承』43−1(5月) 「『郷土生活の伝承性』の訂正と追記」『日本民俗学』123(8月)
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1980年(昭和55) 89歳
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「五氏分治時代とは何か」『島の科学』17(3月) 日本民俗学会の第2回会員選挙で評議員に選出されるも辞退(6月)。
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1981年(昭和56) 90歳
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宮本常一死去(1月30日)。 「瀬戸浦の出現について」『島の科学』18(3月)
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1982年(昭和57) 91歳
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「土食考」『島の科学』19(3月) 「新春おめでとう」を『民間伝承』46−3に寄せ、「ひたむきのこの身なりけり老の春」という句を詠む(5月)。 『壱岐国史』(壱岐郡町村会)を刊行(8月)し、瀧川政次郎らが序文を寄せる。 『壱岐国地名誌』(壱岐郡町村会)を刊行(9月)。 郷ノ浦町名誉町民第五号に選定される(10月1日)。
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1983年(昭和58) 92歳
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「日本建国と壱岐島の開発・壱岐国史序説」『島の科学』20(3月) 日本民俗学会の第3回会員選挙で評議員に選出される(6月)。
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1987年(昭和62) 96歳
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『角川日本地名大辞典・長崎県』(寄稿・角川書店)刊行(6月)。 自宅・書斎が火災に遭う(8月下旬)。 老衰のため死去(12月26日)
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1993年(平成5)
| 目良亀久死去(2月22日)。 |
作成(2001/01)