壱岐島の元寇1



元寇の始まり
 源頼朝が伊豆に流された頃に、モンゴル高原に生まれたテムジンは、蒙
古族の統率者汗(ハン)位につき、チンギス・ハンと称しました。彼は版
図を広げ、中央アジア・西アジア・南ロシア・中国北部を征服し、東ヨー
ロッパまで到達しました。そして、大帝国を四分し、四子に統治させ、孫
フビライ・ハンは1271年、中国本土を元帝国として、北京を都として
大都と称し中国統治に専念しました。フビライは、更に南宋を滅ぼし、ベ
トナム・カンボジア・ビルマなどを従えました。
 そのため、東西貿易や文化の交流が盛んになり、西アジアやヨーロッパ
から商人や使節、宣教師など多くの人が元ををおとずれるようになりまし
た。イタリア人のマルコ=ポーロは、東方見聞録の中で日本を「黄金の島
(ジパング)」としてヨーロツパに紹介しました。
 一方、朝鮮半島では、10世紀のはじめ、高麗が国を建て、半島を統一
しました。高麗はたびたび元の侵略を受け、王朝を江華島に移し、国民は
約30年間激しいゲリラ戦で抵抗をしましたが、骸骨野をおおう≠ニい
う惨状で、1259年、ついに降伏しました。
 フビライは、高麗を先導として日本に服属を求めるため、使者を送りま
した。
 先ず、文永3年(1266)年8月、使者に日本への国書を持たせ、高
麗に向わせました。その時、高麗の先導役は、12月、巨済島に元の使者
と共に渡り、対馬の方を望み、風涛の猛威・対馬島民の野蛮で無礼な行動
などの不安を述べたて、結局日本には渡りませんでした。
 翌年も元の使者が高麗に派遣され、そこで、遂に高麗の使者が元と高麗
の国書を持参し、対馬から博多へとやって来ました。
 文永5年(1268)正月、筑前守護少弐資能
すけよしは、国書を鎌倉に送り
ましたが、朝廷と幕府は返書を出しませんでした。その後、元は文永10
年(1173)まで、度々使者を出しますが、幕府の態度は強硬で、これを追
い返し、朝廷も幕府も一体となって防衛一筋に動くことに決まりました。
 ここに、わが国は、いよいよ、建国以来初めての国家的大試練に直面す
ることになりました。
 源氏の血筋が実朝の死後、あとが絶え、当時の鎌倉幕府は北条氏が執権
となって強力な権力を握っていました。北条時宗はわずかに18歳の青年
でしたが、この国難に直面し、執権となりました。

文永の役
先ず、対馬を攻める
  文永11年(1274)正月、フビライは高麗に軍船300艘建造を命じ
ましたので、3万5千人の工匠や人夫が各地から動員され、突貫工事をも
って半年間で完成させました。300艘は大船で「大小900艘」と元に
報告されています。
 10月3日午後4時ごろ、月浦
(がっぽ・馬山)を出発、兵は、蒙古人・女
(じょしん)人・中国人合わせて約2万人、高麗軍8千人、舵とり・水手
6千7百人、総勢約3万5千人。船は大船三百艘、快速船三百艘、小舟3
百艘、合計9百艘。10月5日の午後4時ごろ、対馬の西海岸の小茂田の
海岸にあらわれました。守護少弐氏の代官である宗資国
すけくには80余騎
でかけつけ、翌早朝、通訳をとおして来意を問いましたが、敵軍は船上か
ら矢を放ち、7、8艘から1千人ばかり上陸をはじめました。
 資国らは、たちまち、討ち死にしました。小茂田の家屋は焼き払われ、
焦土と化しました。この激戦の中を、小太郎と兵衛次郎が抜け出して博多
に渡り、元軍の対馬襲撃を報告しています。


壱岐が襲われる
 10月14日午後4時ごろ、壱岐の北西海岸勝本・鯨伏方面に姿を現わ
した元軍は2艘400人が上陸しました。


   
壱岐北西岸にある天ケ原(勝本港の東側・約0.5q)

   
        勝本港

勝本・城山公園展望台より対馬方面を望む
(水平線に対馬が浮かんで見える)
  (すぐ側の秀吉が築かせた勝本城の「虎口」も、この方向に開いている)


 『
八幡愚童訓はちまんぐどうくん』は、次のように記しています。「同十四
日申刻
(午後4時頃)に壱岐島の西面に蒙古の舟つく。其中に二艘より四百人
計をりて、赤幡さして、東三度敵三度をがむ、其時守護代
たいら内左衛門
景隆かげたか並に御家人等百余騎、庄の三郎が城の前にて矢合す。蒙古が
矢は二町ばかり射る間守護代が方二人手負ぬ、異敵大勢也、かなうべくも
なかりければ、城の内にて自害しぬ。同十八日平内佐衛門下人宗三郎、博
多へ渡て此由申処に、蒙古人船共をしかけて、鎮西筑前国津に付く。此由
京都に馳申す。」

 上陸地について、『
高麗史』には「忽魯勿塔くるもとに向う」と書いてい
ます。勝本は風本
かざもとといっていましたから、こんな漢字をあてたもの
と思われます。壱岐島の北端にあり、船の出入りに便利なのでここを選ん
だのだと考えられます。なお、守護代の居城(瀬戸)を背後から攻めよう
という意図があったという人もいます。
 守護代は居城を出て勝本方面に出兵し、元軍に部下百余人をもって応戦
していますが、その一つが庄の三郎が城の前の戦いだったのでしょう。
 
 この城が勝本町新城の
樋詰ひのつめであったとされています。


樋詰城址(現新城神社・周りの堀は埋められて耕地になっている。)

 『日蓮註画讃巻第五「蒙古來」篇』に
 「二島百姓等、男はあるいは殺
ころされあるいは虜とりこ、女は一所に集
め、手を徹
とおし、舷ふなばたに結付、虜の者は一人も害さざるなし。
 肥前国松浦党数百人伐虜さる。この国の百姓男女等、壱岐・対馬の如
し、」とあります。 これは、日蓮の伝聞ですから、次第に誇張されてい
ったものと思いますが、元軍が各地で行った殺戮の歴史からみて、この程
度のことはあったのではないでしょうか。

 この戦いを再現すると、
「10月14日16時頃、壱岐の北西海岸、天ケ原付近と本宮海岸に大船
二艘から四百人が上陸した。守護代平景隆は、居城を出て勝本方面に向
い、家来百余騎を率いて庄の三郎ケ城
(樋詰城)前で矢合わせをする。敵は
赤旗を立て東方を三度拝むと矢を射かけてきた。敵の矢は二町(220m)景
隆の方は一町(109m)と差があり、じりじりと押され、残る者僅か二十〜
三十騎となった。数時間の戦いの後、日暮れと共に敵は退却したので城を
守ることにして樋詰城に引き揚げた。
 よく15日の朝、城は包囲され、敵は城内への突撃を繰り返した。景隆
の方もよく戦ったが遂に敵の城内侵入となり、自らも傷ついたので、家来
の宗三郎を大宰府に急を告げさせ城内で自害した。宗三郎は18日に到着
した。
 その後、元軍は島民を見つけ次第、男子は斬殺し、女子は手の掌に穴を
あけて綱を通し船舷にぶらさげるなど残虐の限りをつくした。家屋は焼き
尽くされ、家畜の被害も甚大で、壱岐牛も一頭もいなくなった。」となる
のでしょうか。

 「ムクリ・コクリ」が来る、と言うと泣く子も黙ると言われたほど、そ
の残虐な行為は壱岐・対馬・北九州の人達に恐怖感を植えつけています。
ムクリー蒙古―元、コクリー高麗のことです。「蒙古トハ異国ムクリノ事
也」(『
沙汰未練書』)というようにムクリが通用していました。
  
 『
壱岐国続風土記』は、この樋詰城について「庄の城、新城村。往昔
庄司の地。本丸東西二十間南北十八間余、堀の周り六十五間、深さ七尺七
寸、堀東横六間余、南横十四間余、西横七間半、北横三間半余、惣周囲二
百八間、岸の高さ二間余。
 城より三十間許に
土橋東にあり。長さ四間樋詰橋という。其橋より東に
千人塚とて方十二間余の築地あり。城地畑と成りし端東南西三方の岸上畑
端敵身方討死の骸埋し白骨多く今に農人ほり出す。城地畑の真中に其石積
を取捨農人石一ッを近年立てたり。」
 上記の土橋は、現在、「新城橋」と名付けられていて,新城神社と千人塚
の中間にあります。


      
元寇千人塚(樋詰城址の側)

 壱岐の守護は、対馬と同じ少弐氏で、守護代は平景隆たいらのかげたかでし
た。景隆戦死の地として明治十年頃壱岐郡内の有志によって、城址に景隆
の霊を鎮斎して神社を創立しようという動きが出て、先ず石碑を建設して
政府に具申しました。明治16年12月10日宮内省から金五拾円が下賜
されました。そこで、明治19年に神殿を建築して、守護代平景隆をはじ
め、文永・弘安両役や寛仁三年戦役
(刀伊の入寇の際、壱岐守藤原理忠他多数戦死)
殉難将兵諸神を安置しました。
 これが
新城神社で、境内には元寇関係の記念碑や平景隆の墓がありま
す。その墓は本殿の近くに建っています。
     


  「平景隆自刃の地」記念碑

 なお、これらの史跡を一括して「文永の役新城古戦場」として、県指
定史跡になっています。

松浦半島沿岸・島々、博多港へ侵寇
 10月16、7日になると、元軍は松浦半島の沿岸や平戸・能古のこ
鷹島
たかしま辺の防備の手薄なところを狙い、侵入しました。多くの住人は
捕らえられ、壱岐・対馬の住人と同じ目にあわせられたことは、『
日蓮註
画讃』に記すとおりです。松浦党の武士も奮戦し、数百人が討ち死にして
います。
 次に10月19日博多湾に入り、翌20日上陸を開始しました。
 博多では少弐武籐氏覚恵
かくえの子の筑前守護代少弐武籐三郎左門衛門
景資
かげすけを総大将として元軍を迎え討ちました。この時が少弐資時(覚
恵孫・しょうにすけとき・弘安の役の時、壱岐瀬戸浦で戦死)
の初陣だったということで
す。
少弐家記録少弐貞頼記録』は、「上略十月二十日未明より蒙古の一手
陸地におしあがり馬にのりはたをあげて攻かかるここに日本の大将に前少
弐入道覚恵の孫
資時わづか十二三なるがさすが大将軍少弐経資殿一子こと
にもり役尾形四郎兵衛が養育せしなれば実にやかくやもありなん先導する
は少弐殿部下にて三勇士の一にかぞえられし平の季遠中に
資時殿殿りする
は四郎兵衛館の大門より馳せ出しにけり三騎は敵の横合に出でけるに蒙古
は船を出で攻め寄せ来る大軍雲霞の如くありける見る見るうちに戦はじま
りぬ蒙古は火丸をうちとばしあるひは毒矢をいりけるがこれを見るより

弐資時
殿は小さけれどちとおそれず矢合のためとて小鏑を射出したりける
に蒙古一度にどっと笑ひ太鼓をたたきどらを打て云々」
          
(『長崎県史跡名勝天然記念物』第六輯・昭和4年・長崎県発行)

 この戦いでは、わが軍は元軍の集団戦法・火薬をつめた「てっほう」
・毒矢等で苦戦をしいられました。菊池武房
きくちたけふさ、竹崎季長たけざき
すえなが
らの奮闘も及ばず、博多の各所に火を放たれ、箱崎八幡宮も焼け落
ち、大宰府の水城
みずきまで退きました。
 20日の両軍の全面戦争は終わりました。結局、文永の役の決戦はこの
一日がハイライトとでした。昼間の戦いを有利に進めた元軍も夜になると
全員船に引き揚げました。

 そして、21日の朝になり夜が明けると、博多湾の上から元の大船団は
一艘浮かんでいるばかりで姿を消していました。
 20日夕刻から降り出した雨は夜半に大風雨になり、多くの軍船は翻弄
され、難破し、あるいは浅瀬に乗り上げました。
 「夜、大風雨に合い、戦艦岩崖に触れ多く敗る、」(『
高麗史』)

 それから、1カ月以上もの後、11月27日に高麗の合浦に帰着してい
ます。未帰還者は約総勢3.5万人のうち、1.3万人といわれていま
す。
 合浦まで1ケ月以上かかったというのは、20日の夜に大暴風雨に遭
い、壱岐・対馬に寄港して軍船の修理をしたのではないでしょうか。
又、未帰還者の数が多く、壱岐の沿岸付近で碇石が発見されていますの
で、壱岐の沿岸でも大風雨に遭ったのではないでしょうか。

 合浦に帰還した元軍を高麗王は使者をだして、ねぎらっています。帰還
兵は日本から捕らえてきた「童男女二百人」を高麗王に献上しています。
この戦利品とされた子供達は、壱岐・対馬の少年・少女だったと思われま
す。(『
高麗史』)

 なぜ、元軍は引き揚げたのでしょうか。これに対して、元軍は蒙古・女
真・中国・高麗からの寄せ集めであり、戦いの疲れもあり、不和であった
からだという説や神風説等があります。この「神風」については、20日
の夜半の大暴風雨といわれてきましたが、いろいろ論争があるなかで、壱
岐・対馬の近くにさしかかった間までであるという説が有力ということで
す。上の碇石のこととも合います。

「官軍不整
かんぐんととのわず、又矢尽またやつきる」(『元史日本伝』)
 
 元軍の指導者らが、中国に帰ったのは、翌年1月はじめでした。


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