壱岐島の元寇2

文永の役後の動き
 北条時宗は、元軍の再度の来襲を予想して西国の防備の充実を進めま
した。そのため、九州の武士を統治する鎮西探題、山陰・山陽・南海の武
士を率いる長門探題という役職を設けました。
 幕府は、攻守両様の準備を整え、進んで高麗を攻める計画をしました。
防備面では、九州に所領を持つ御家人に博多付近の防禦につく
異国警固番
を設け、博多湾一帯に石築地いしついじ(元寇防塁ぼうるい)を築かせました。
 
 しかし、壱岐に対しては、そのような防衛強化の跡はなく、狼煙台
のろ
しだい
を造り、見張りや警備の兵を置いた程度だったのです。

 高麗の疲弊は、その極に達していました。1275年
(文永12・建治元)、忠烈
王は使者をフビライに送りました。
 「もし、また、日本遠征のことがおきれば、軍艦・兵糧はわが国の負担
能力をこえる。わが国はすでに皮すらなくなった。どうにもなりませ
ぬ。」
(「曲諒哀哀之訴」『高麗史』)

 元は文永の役の翌年の建治
けんじ元年(1275)4月15日、日本に服従を求
め、使者を送ってきました。執権北条時宗は9月4日七里ケ浜の近くの龍
ノ口で斬りました。
(「元使五人塚」・五輪の供養塔五基・藤沢片瀬常立寺
                                    じょうりゅうじ)

「門を出ずるに、妻子は寒衣を送りたり、
 我に問う、西に行き幾日にして帰ると、」
                  
(正使の辞世の詩の一部『続群書類従』)

 その後、弘安
こうあん2年(1279)6月に、南宋と日本とのよしみで元との
通好をすすめると、日本は応ずるかもしれないということで、南宋の使者
が国書を携えて来日しました。内容はフビライのものと変らず脅迫めいた
ものでしたから、京・鎌倉にまわすまでもなく、博多で斬首しました。
 この使者と一緒に渡って来ていた水夫4人が、8月に逃げ帰り、前の使
者も斬首されたことを報告しました。前使が日本に派遣されてから4年の
歳月が流れていました。
 このことは、使者の返事を待っていた元の役人達に「日本討つべし」の
声を挙げさせるものとなりました。

異国征伐(高麗征伐)
 建治元年(1275)12月8日、執権時宗は、安芸国守護武田信時に指令を
下しました。

 建治2年3月頃を異国征伐の実施時期と定め、船舶等の準備、その費用
の賦課徴収・動員等の権限を鎮西奉行少弐経資(
少弐資時の父)に与え、
これを諸国の守護・地頭に伝達させました。
(『鎌倉遺文』)

 しかし、具体的な進展はなく、中止になっていったようです。
 石塁築造計画が征伐計画と入れ替わりになったようです。遠征計画が負
担過重・戦意・補給輸送の困難・元軍の二の舞の恐れなどの面から判断し
て、防衛に力を注ぐようになったのでしょう。

弘安の役
フビライ、戦いを決意
 建治2年(
1276)正月、元は南宋の首都臨安(杭州)を落し、79年、最
後の皇帝も自害し、宋朝は滅亡しました。
「宋朝が滅亡し、蒙古が支配しているので、今春渡宋した商船等は、貿易
どころではなく、走り還った。」
(『建治三年記』)
 
 
日本と宋を同時に攻撃するのを避けていたフビライは、改めて日本侵略
に的をしぼりました。

 博多で斬られた宋の使者たちの来日も、このような中国の事情があった
のです。
 「噂によると、宋は蒙古のため、討ち取られ、日本も危なくなるだろう
と宋朝
(遺臣)よりの忠告があったようだ」(『兼仲卿記』)

 宋の役人達の一部に反対はあったようですが、将軍達は元軍の前に降伏
し、なかには積極的に日本遠征をフビライに提言する者もいました。

 一方、高麗も3年近い内紛があり、再度の日本遠征も延ばされていまし
たが、これも治まり、忠烈王は元王朝の女婿の地位にあって、その保証も
されたので、おのずからフビライに積極的忠誠を誓わざるをえなくなった
ようです。

遠征準備
 早くも、建治元年(1175)10月に、元は高麗に「戦艦を修造」させ、
11月には「鏃迭やじり」をつくるよう命じました。
(『高麗史』)しか
し、翌年正月、製造を中止させました。宋との戦争が終わらないことや高
麗の負担を考慮したものと思われます。

 3年後、弘安2年(1279)2月、南宋皇帝が没した翌日、早速、宋
の支配下だった楊州など4州に日本征伐のための「戦船六百艘」の建造を
命じました。
 6月には高麗へ「戦船九百艘」の建造を指令しました。
 8月には4年余も消息のなかった元使五人の斬罪の模様が、4人の逃げ
帰った水手から知らされ、フビライは一層日本への征服の気持ちを高ぶら
せました。
 
  フビライは遠征について、次のように指示しました。
(1)蒙古人・高麗人・中国北部の漢人でできた東路軍4万人は合浦から
   出発する。(軍船900艘)
(2)中国南部の南宋人からなる江南軍10万人は江南から出発する。
   (軍船3500艘)
(3)そして、両軍は壱岐で合流して、日本を攻撃する。
(4)仲たがいをするな。
(5)占領地の農民達をむやみに殺すな。
(6)鋤
すき・鍬くわ、種モミなど携行し、長期戦に備えよ。

第一次壱岐合戦(『壱岐瀬戸浦史』より)
 
弘安4年(1281)正月、フビライは日本遠征を命じました。
 5月3日、東路軍が合浦を立ちました。すぐに日本に向わず、巨済島
にしばらく碇泊しました。これは風待ちと偵察のためだと思われます。
 途中、5月21日頃対馬を侵し、5月26日、壱岐の勝本の忽魯勿塔
くるもと(浦海うろみ海岸)に向かいました。この途中で、大風で113人
の将兵と水夫36人が行方不明になっています。(『
高麗史』)
 その頃、壱岐には鎮西奉行少弐経資
つねすけの子である少弐資時すけとき
(19歳)が、守護代となっていました。資時の居城は、瀬戸浦の船匿
ふなかくしであったと伝えられています。
 
資時の軍は、勝本方面からと瀬戸浦から上陸してきた両方の元軍の攻
撃を受けました。
 高楼を有する軍船が、船匿城及び東側内湾入り口「現在、長徳寺墓
地」付近の防砦
ぼうさいにたいしての「てっほう」の打ち込みで、侵攻は
開始されました。「てっほう」とは投擲
てき用の爆弾であったらしく、
その投擲距離は約40メートルから60余メートルといわれ、黒色火薬
を使用して、その殺傷範囲は約50メートルだったということです。
「てっほう」と同時に短弓の毒矢が雨のごとく注がれ、ひるんだ時に上
陸した蒙古兵は喚声を挙げて崖を登ります。その間も矢は崖上の防砦に
注がれます。崖上の少弐軍は上から岩石を投げ落し、登ってくる蒙古兵
は岩石に当り、崖下に落下して、絶命する者、負傷して動けない者が多
くでたことが推察できます。やがて湾内に侵入した蒙古軍船から、続々
と新手の蒙古兵が上陸を開始し、それを迎え討つ少弐軍は腹背に敵を迎
え、若武者
資時は大太刀を奮って陣頭にたち、前を討っては、後に駆
け、力戦奮闘しましたが、援軍無き戦闘に、我が方の戦死者も次第に増
えていきました。
 この間、
資時は敵将、康彦、唐師子を討ち取るなど、敵軍を大いにな
やましましたが、戦闘は最悪の状態を迎えました。しかし
資時はこれに
ひるまず、平季遠、尾形四郎ら生き残る者達と、先頭にたって太刀を振
りかざし、喚声をあげて群がる敵軍に突入していきました。いくばくも
なく、敵の重囲の中、
資時は前身に矢を受け、平季遠と共に刀折れ矢尽
き果て、19歳を一期として壮烈な最後を遂げました。尾形四郎も又、
全身に痛手を受け、もはやこれまでと、これ見よとばかりに敵をはった
とにらみつけ、腹かき切って壮烈な最後を遂げました。将士がことごと
く戦死すると、敵兵は住民を捕らえ暴虐の限りを尽くしたということで
す。山に逃げ隠れ潜む住民の赤子の泣き声を聞いて、捜しまわり、捕ら
えては、ことごとく殺しました。中には、命惜しさに愛する我が子を刺
し殺して、逃げ隠れする者もあったと伝えられています。
 捕らえられた妊婦は腹を裂かれ、中の赤子を掴み出されて殺されまし
た。意にそまぬ婦女子は手に孔をあけられ、縄を通してから、引きずり

回され、後、舷外に吊るされました。(新元史・鎮西要略・壱岐国史・元寇物語)

 
資時の墓は瀬戸浦の少弐公園にあります。そして、近くの壱岐神社
祀られています。


            
少弐資時公墓地 

 
 少弐資時に関する資料を紹介しますと、

[
少弐資時](『壱岐瀬戸浦史』)
「少弐氏の先は藤原氏。源頼朝は、建久七年(1196)、武藤小次郎資頼を
筑前守護・太宰少弐に任じ、豊前・筑前・肥前・壱岐・対馬を統轄させ
た。これから子孫世襲し、少弐を氏として室町幕府の末代まで及ぶのであ
る。
 少弐氏は壱岐に守護代を設け、三代目経資の一子である
資時を以って壱
岐島警備の任に当てた。
資時、壱岐着任前の文永11年10月19日、元
軍の來寇を博多に迎え、当時12歳の
資時は、戦機熟するとき軍馬を陣頭
にすすめて、戦勝を軍神に祈るために、鏑矢を引き絞ってヒョウと放つと
、元軍はその意味を解せず、ドッとばかり笑ったという。これが
資時の初
陣であった。次いで、弘安4年(1281)、5月21日、元軍は再び壱岐に
入寇し瀬戸を侵した。この戦いより、資時若干19歳にして壮烈な戦死を
遂げたのである。明治37年2月3日、
資時の功を賞して金五十円を賜ひ
又,其の忠節を表し、大正4年11月10日、従四位を追贈された。」
 
少弐家譜』「資時(覚恵孫・経資男)弘安四年興蒙古戦於壱岐島前討
 死」 

元寇紀略』 「弘安四年夏…蒙麗漢四万人戦艦九百艘発合浦二十一日丙
辰來犯対馬及壱岐殺島民三百余人惨毒尤甚島民乃妻走匿山中賊或聞児泣即
至焉有父母殺其児避之者。
少弐資時竜造寺季時松浦氏彼杵木氏千葉氏高木
氏率兵数万防戦壱岐瀬戸浦斬賊将康彦康師子賊登船楼発火砲我兵披靡
資時
死之。」


   
壱岐護国神社(小弐資時公他殉国者を祀る)

     [孤島の丘(防人さきもりの歌)]
                          作詩 目 良 与志汎
                    作曲 細 川 潤 一

一、かりがね渡る   壱岐の島
  磯馴
そなれの松も  老い伏して
  苔に埋
うもれし   石塚に
  宵月
よいづき淡く   虫の声
              
(詩吟)「元寇ここに迎え討ち
                  太宰少弐の若武者が
                  無念と果てし跡いづこ」
二、筑紫のかなた  おろがみて
  奇蹟を祈る   つかの間も
  最後の狼火
のろし 立ち昇る
  ああ神風を   誰が知る
               三、歳月
つきひは巡る  玄海に
                 漁火
いさりびあまた きらめけど
                 訪
おとのう人も   絶えてなく
                 空
むなしや咲ける  花すすき

かりがね鳴き声)  
おろ(壱岐と博多湾との中間に見える小呂
おろのしま・太宰府へ敵
    襲を知らせる少弐公園の狼煙台から見える)
玄海(正しくは、玄界灘ですが、を使うと島のイメージが強調
    されるので慣習として使われている。例・玄海タクシー・
    玄海酒造・玄海寮など)

(掲載には、作詞者の子息、目良徹郎氏の許諾を得ました。)

元軍九州北部へ進出
志賀島の合戦
 弘安4年(1281)6月6日、東路軍は博多湾に姿をあらわしました。恩
賞目当ての武士達は、博多湾の入り口にある志賀島へと駆けつけました。
 なかには、船で夜討ちをかけた武士達もいました。元軍も上陸を試みま
したが、堅固な防塁に阻まれましたので、元軍は鎖で船をつなぎ、寄せて
くる日本兵があれば、石弓で船を打ち砕きました。
 奉行所は勝手な夜討ちを禁じましたが、御家人の功名心は止められませ
んでした。
 戦いは、6日より13日まで昼夜を問わず行われ、元の船は鷹島に退き
ました。
 鷹島は肥前松浦郡の伊万里湾の入り口にあります。
 
 8日間の戦いで東路軍はついに博多湾への侵入はできませんでした。
 
 東路軍は、兵隊の間に疫病が発生したり、水・食糧不足・戦闘の疲れな
ど耐乏生活も限界にきていましたので、元軍より弱気な提案が出されるよ
うになりますと、高麗軍は早く日本征服が終われば、元軍が高麗から撤退
するという気持ちから、戦争の遂行を強く主張しましたので、江南軍を待
つことになったようです。

第二次壱岐合戦
 
蒙古の両軍は、6月15日に壱岐沖で合流するようになっていました
が、東路軍は早まって博多を攻め、失敗しました。

 なお、江南軍は、壱岐沖ではなく、壱岐にも近く、防備の手薄な平戸に
向かうようにしましたので、これを東路軍に知らせる必要があったので、
先発隊として300艘を分遣しました。対馬に来着したのが、6月26日
以前のことでした。
 又、東路軍は江南軍の先発隊に鷹島にいることを知らせようとして壱岐
に向かって出動しました。これに対し、対馬に到着した江南軍も壱岐に向
かいました。
 ここで合った両軍は最初の予定のように壱岐の襲撃を企てました。

 そこで、我が軍が、この両軍を攻撃する壱岐合戦が始まるのです。

 『
蒙古襲来の研究(相田二郎) によりますと、壱岐島の合戦は、
6月29日から7月2日まで行われています。

 博多の周りの防塁の守備をしていた薩摩・肥前・筑前・肥後の御家人達
が玄界灘を渡って次々に海上で攻撃をしました。
 この知らせを受けた大宰府では少弐経資
つねすけ(資時の父)を大将として
指揮をさせました。経資は、いわば総司令官として九州の守護たち各司令
官を束ねて、連合軍として、船団をひきいて壱岐に攻撃を仕掛けたもので
しょう。この戦いに、経資の父、少弐資能
すけよし(覚恵かくえ)も出陣しま
したが、重傷を負って博多へ護送され、弘安4年7月18日亡くなりまし
た。資能は老齢にもかかわらず、戦場に臨んだのは、少弐氏は以前より弘
安の役の頃まで、三前二島(筑前・豊前・肥前・壱岐・対馬)の北九州一
帯の守護職についていましたので、九州の武士の中でも最も重い責任を持
っていました。文永の役の頃は、資能が守護職で、その後、経資に家督を
譲った身で、老齢にも関わらず出征したのは、少弐氏の名誉と責任がかか
っており、孫
資時の弔い合戦と思っていたからでしょう。70代の老将と
はいえ、資能は藤原秀郷
ひでさとの血をひく鎌倉武士の典型で、この戦い
で、その気概を示したものと言えます。
 
少弐3代が瀬戸浦の合戦に参加したことになります。

 このほか、特に近くの肥前国の御家人たちの松浦党・彼杵・千葉・高木
・竜造寺氏などが壱岐合戦に参加しています。

東路軍と江南軍の合流、元軍壊滅へ
 東路軍は、江南軍と6月15日に壱岐沖で合流して、一挙に日本を攻め
るという方針でしたが、実現できませんでした。これは、日本にとって幸
いでした。
 
 6月18日、江南軍(宋軍)は、10万、戦艦3500艘
(『高麗史』)
で慶元(明州寧波ニンポー)・定海(舟山島)から出航、平戸に直航しました。
そして、7月にはいると、平戸や五島列島に到着し、壱岐で破れて平戸
に退いた東路軍と会同したのです。
 両軍の兵員は14万に達し、戦艦は5千艘にちかい大軍でした。その
後、20日ぐらい海上に浮かんだままでした。そして、7月27日になっ
て、その主力が鷹島に侵入し始めました。いよいよ、博多湾頭での日本軍
との決戦態勢に入ったのです。
 そして、30日をむかえました。風が強くなり、夜になると暴風雨とな
りました。陽暦8月23日、台風が北部九州をおそったのです。
 平戸島にいた本隊、鷹島に進出していた先遣隊は、この台風でほとんど
漂没してしまいました。
 蒙古軍は、本格的に日本を攻撃する前に壊滅しました。
 元軍10万、高麗軍7千、14万の大軍はその4分の3を失いました。

 『
八幡愚童訓』は、「西国ノ早馬付テ、申テ云、去七月晦みそ(正7月
29日条)
日の夜半より戌刻マデ、風ヲビタダシ(ク)吹テ、閏七月一日
ハ、賊船悉ク漂湯シテ海ニ沈ミヌ」と記しています。

「上下大慶の由、謳歌
おうかてえるなり」(京都に勝報が届いた時の様子を書いたもの
                                  『
弘安四年日記抄』)

「官軍返らざるもの十万いくばくか有、我軍返らざるもの七千余人」
                           
(『高麗史』)
激しい日本軍の追撃
 実に天佑といえるような台風により、日本軍は弓矢刀剣の力を借りずに
元軍を大敗させました。戦いの勝敗は、この日全く決し、これから敗戦の
元軍に対する日本軍の徹底的な追撃・処刑が始まりました。

 この状況を伝えた資料を紹介しますと、

日本側の資料としては,『八幡愚童記』があります。
「残所の船共は皆破損して磯にあがり、興
(沖)にただよいて、海の面は算
を散すにことならず。死人多くかさなりて、島をつくに相似たり。身没し
魂孤、望郷の鬼となる。雲南の濾水にことならず。鷹島に打ちあげられた
る異賊数千人、船なくて疲居たりしが、破船共つくろひて、七八艘に、蒙
古、高麗人大略逃もどる。是を見て鎮西の兵者共、少弐の三郎左衛門尉景
資を大将軍として、数百艘を以て押寄する。異国人共、船なければ、逃に
及ばず、今はかうとて、命ををしまず散々にたたかう。引組で海へ入、さ
しちがえて死するもり、千余人残しが、平に降を乞ひけるを、さのみいけ
ては無益也とて、中河
(博多の那珂川)辺にて首をはぬ。始はかう(梟)にかけ
しが、後には打積て置く。此外数輩虜る。此由馳申ければ、天下静謐に属
し、上下色をなをしけり。」
(『八幡愚童記』)

元側の資料としては、従軍した一兵卒の言によった『元史日本伝』の記事
があります。
「八月
(日本暦閏七月)一日風船を破る。五日、文虎等の諸将各自堅好の船を
択んで之に乗り、士卒十万余を山下
(鷹島の五竜山)に棄つ。衆議って、張百
戸なる者を推して主帥と為し、之を号して張総管と曰ひ、其の約束
(命令)
を聴き、方に木を伐り船を作って、還らんと欲す。七日日本の人来り戦
ひ、尽く死す。余るもの二三万其の虜と為って去る。九日八角島
(博多のこ
と)
に至り、尽く蒙古高麗漢人を殺して、謂へらく、新附の軍は唐人為り
と、殺さずして之を奴とせり。昌
(江南軍の一兵卒・生還して報告した者)の輩是
也。蓋し行省官事を議って相下らず。故に皆軍を棄てて帰る。之を久う
して莫青と呉万五と亦逃げて還る。十万の衆還るを得る者三人のみ。」
 

                 
       
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