福岡県立福岡高校・田中誠教諭と同宇美商業高校・岩佐英樹教諭が、
2001年7月、福岡県立高校地理研究会(福岡地区)の巡検(11月予定)の下
調べに来られた時に、少弐資時
すけときの墓を案内しました。
 その折、岩佐教諭が資時の祖父・曽祖父の墓が大宰府にあると教えてく
ださいました。
資料をお願いいたしましたところ、送付してもらいました
ので、掲載します。 (2001.8.2)

少弐家の系図  
    資頼
すけより−資能すけよし−経資つねすけ資時すけとき
                      
景資かげすけ


『      
元寇 と 武藤資能

 観世音寺の北西約400メートルの森の中、安養寺跡に、武藤資頼とそ
の子資能の墓がある。
資頼の墓は一石隅切五輪塔残欠いっせきすみきりごりん
のとうざんげつ
(県文化財)といい、資能のそれは宝キョウ(註・漢字)印塔
ほうきょういんとうといわれる。

 平家を滅ぼした
源頼朝は、大宰府に鎮西奉行をおき、東国の武士武藤資
をそれに任じた。後に資頼は太宰少弐に任ぜられたので、武藤氏を少弐
というようになる。
 その子資能は、
大応国師(宋で八年間仏法を学ぶ)を大宰府に迎えた。
 大応国師は、最初興徳寺(福岡氏姪浜)に入り、ついで
崇福寺そうふくじ
(大宰府市白川横岳)に入山、この寺の開山始祖となった。(文久九・
1272)
 この前後に、元の使者が第一次、第二次と都合五回来ているが、大宰府
ではその応対に苦慮、その責任者として鎮西奉行太宰少弐武藤資能は、大
応国師を用い、元使との交渉に当っている。
 文永八年(1281)と同十年の二度にわたり、元使趙良弼
ちょうりょうひつ
が大宰府にやってきているが、幕府は二度とも上京を許さず追い返してい
る。
 かくて、文永十一年(1274)十月、三万数千の元・高麗軍が博多湾に来
襲し、十九、二十日にかけて激しい戦闘になった。この時、資能は入道し
覚惠かくえといい、すでに守護職となった子息経資つねすけ景資かげすけ
総指揮官として、獅子奮迅のはたらきをした。
 しかし、集団戦の元軍に対し、日本軍は一騎打ち戦法のために戦況が不
利となり、やむなく日本軍は水城を防衛線として大宰府に逃げ込んだ。だ
が、翌日、元軍の船の姿は博多湾には無かった。
 その後、再度の蒙古襲来に備えて、博多湾に二十キロにわたって石の防
塁が築かれる。蒙古皇帝世祖フビライは、なお日本征服の野望を捨てず、
文永十二年(1275)元使杜世忠を日本に派遣するが、執権
北条時宗は、
これを相模竜ノ口で斬り、ついで再度来た国使周福をも博多で斬り、強
硬な態度を示した。
 弘安四年(1281)六月六日、元の東路軍四万人が博多湾志賀島に到着、
一進一退の攻防が続いたが、上陸作戦に失敗した東路軍は壱岐・肥前鷹島
に退き、江南軍の到着を待った。
 この時、武藤資能は、八十四歳の老齢をおして甲冑に身を固め、壱岐に
軍を進め、蒙古軍に突入して重傷を負い、のち閏
うるう七月十三日に落命
した。
 やがて、七月二十七日に江南軍十万が鷹島に到着し、戦闘は一層激しく
なったが、二十九日の夜、暴風雨が襲い、翌閏七月一日には、元の遠征軍
が壊滅したことは人の知るところである。』

 
 
岩佐先生のお便りによりますと、二人の墓は大宰府の山沿いにあり、
目立たない所だそうです。
 
資時の父の墓の所在地については、不明いうことです。
 
どなたか、ご存知の方は居られませんか。⇒ 



                


              
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