「史跡等を訪ねて」
          少 弐 資 時 の 墓
   
 
少弐資時をまつる壱岐神社の本殿裏の高台にあります。弘安4年の蒙
古襲来の折り、壱岐の守護代として、壱岐の島の人々を守るために討ち死
にした少弐資時は、九州第一の名家の三男でした。
 少弐氏はもと武藤姓を名乗る武蔵国出身の武家の名門で、資時の曽祖
父、武藤資頼が太宰少弐に任命されて以来、武藤氏が太宰少弐の官職を代
々務めることになりました。そして、少弐姓を名乗るようになります。
 少弐資時が、何処で討ち死にしたのか、いろいろの説があります。少弐
畑(ショウニバツケ)が戦死をした所という説が一番有名です。
 『武藤少弐家譜』には、
  壱岐島前に於いて討死とありますし、
 『元寇紀略』には
 元軍の船から発された火砲の弾が当って死んだとあります。
 このように討死をした所に諸説があるのは、それだけ元軍との戦がすさ
まじかったことを物語っています。
 乱戦になってしまい、大将の少弐資時の姿さえ定かでなくなったことが
想像されます。
 明治三十一年、湯地丈雄等は、壱岐を訪れ、「ショウニイ様」と呼ばれ
る石積みの塚は、少弐資時の墓に間違いないとして祀りました。それがこ
の写真の墓です。
 壱岐神社は、後藤氏の尽力で昭和七年に神社創立の許可がおり、昭和十
九年に本殿が造営されました。
 少弐資時の武功に対して、明治三十七年二月三日、金五十円が下賜さ
れ、大正四年十一月十日、従四位の位階が追贈されました。

      弘安の役・瀬戸浦古戦場
       
      
瀬戸浦古戦場の少弐公園を望む。森の中に壱岐神社の鳥居が見える。

 
弘安四年元の東路軍は五月二十一日、瀬戸浦に上陸、壱岐の守護代少
弐資時がこれを迎え撃ち、力戦奮闘しましたが、衆寡敵せず、ついに、
十九歳を一期に壮烈な最後を遂げました。(五月二十六日という説もあり
ます。)

           船ふな 匿かくし城 跡
          
           
 中央の山頂部に船匿城跡がある。
     
     
 船匿城の海側の崖。右側の家は、上の写真の中央に見える高原家
       
         
 山頂部にある船匿城居館跡(記念碑右側)
 
 守護代の居城については、芦辺港
(瀬戸港)近くの中山丘稜の「船匿城」
であったと伝えられています。
 守護の武藤資頼は、筑前・豊前・肥前・壱岐・対馬の五ケ国を支配して
いましたが、対馬・壱岐は離島であるので、守護代をおきました。壱岐の
守護代の拠点が、この城だったのです。
 船匿城のある芦辺港(瀬戸港)は、博多から最短距離にあり、現在城址
前面の海は広く埋めたてられて道路や宅地などになっていますが、山腹の
居宅の高原様は、「昔は海岸まで険しい崖になっており、海岸近くには大
きな瀬が二ケ所あったそうです。また、自宅の敷地には、茶室があったと
聞きました。」と話されました。
 この二つの瀬が防波堤や船着場になり、又、船を隠す役目をしていたと
思われます。

 『
壱岐国続風土記』には、この城址について、「船匿城 箱崎村中山
村、村の辰巳。何れの時、誰人の築けるといふことをしらず。東ハ木場
に境ひ、西ハ美濃谷につづき、南ハ海に臨み岸高し。其上の平なる所、
一段ハかりありて、北は丈高し。東西二町五十間、南北壱町十一間余、
周囲五町四十二間五尺。沢場に射場あり、海中に船囲あり。中古は当国
呼子・鴨打・塩津留・志佐・佐志の五氏分治して、少弐家に属せり。少
弐亡ひて後ハ、波多家の領国となる。此船匿城に日高大膳居住せり。其
墓、城の小場路の岸上山中にあり。方壱間計り崩散せり。」と載ってい
ます。
 
 現在は、箱崎大左右触高原氏の私有地内にり、元軍来襲の時壱岐の防禦
地点であって、小弐資時公はこの地で玉砕し、遺骸を現在の墓地に葬った
ものと伝えられています。

 この付近には、「屋敷」「城丸川」などと呼ぶ地名があります。特に、
弘安の役の時は、激しい攻防戦が繰り広げられました。
 この城跡は、一部が高原家の私有地で、この裏山には昔から20個ほど
の石を積み上げた塚があり、昭和56年、調査があり、おびただしい人骨
が埋葬されているのが発見されました。
 そこで、供養するために、昭和61年ね浄財を募って「将軍地蔵堂」を
建立され、供養が行われています。

            蒙古のいかり石
       
 
           長谷川家のいかり石 (少弐公園)
 元の軍船につかわれていたと伝えるいかり石です。現在のところ四本
のいかり石が芦辺町内で確認されています。なぜか勝本町では確認され
ていません。
  長谷川家のいかり石(瀬戸浦)
  大師堂のいかり石(芦辺浦田町)
  千人堂のいかり石(芦辺浦安泊)
  旧町役場のいかり石(芦辺浦瀧の上)
 写真の長谷川家のいかり石は、大正十年(1921)芦辺町八幡の左京鼻
沖の海底より引き上げられたものです。その後、福岡市濠の倉光家で蔵
され、芦辺町瀬戸浦の倉光家別邸
(親族の長谷川家が管理)の玄関小庭に移さ
れ、現在は少弐公園に展示されています。
 いかり石は芦辺浦の人々に特別なものとしてあつかわれています。

師堂のいかり石は四国遍路供養塔に、千人堂のいかり石は千人堂の御神
体に、
旧役場のいかり石は墓標として、それぞれ信仰の対象とされてい
ます。
          
           
 千人堂のいかり石

 
  
       か く れ 穴

    
       
自徳庵のかくれ穴(芦辺町住吉前触)

 元軍に追われた人々が身をかくした穴のことを「かくれ穴」とも「人
穴」ともいいます。
 壱岐は対馬とちがって深い山がありませんので、たやすく発見され、殺
害されました。
 山に逃げたけれど、子供の泣き声を聞かれて発見され、皆殺しにされ
た、とも伝えられています。元軍の足音におびえて泣き止まない子は肉親
で殺されたと記録に残っています。
 かくれ穴は山中の茂みの中にあり、入り口がせまく、中に入るにしたが
って広くなるといいます。自然にできた穴を利用したものでしょう。
 勝本町内に残るかくれ穴として、次のものがあります。若宮神社のかく
れ穴(新城東触)、皿川山のかくれ穴(同)、中津山のかくれ穴(北
触)、常楽のかくれ穴(新城西触)、古坊のかくれ穴(本宮西触)、芦辺
町に、谷江のかくれ穴、館所のかくれ穴、国分のかくれ穴、地頭館のかく
れ穴があります。
 写真の自徳庵(ジトクアン)のかくれ穴は、住吉前触にあり、かくれ穴
伝説の穴として壱岐で最も大きいものです。

 私の子供の頃、道路から少し離れた所の山の中に「もうーこん穴」(蒙古の穴)と言われていた
約3〜4メートルの縦穴があり、その底から横のほうに穴が掘られていました。
 この近くに行った時は、仲間と、その穴を恐る恐る覗いたりしていました。
 この穴は、盛んに防空壕が掘られた太平洋戦争以前からあり、また、人家より離れた所にありま
した。
 地区の人が、長く伝承してきていましたので、これが正しく、「かくれ穴」だったに違いありませ
ん。 しかし、この山も、一昨年頃、開発されて削り取られてしまいました。

           ムクリコクリ人形
         
 
 
壱岐の方言に、ムクリコクリという言葉があります。

 ムクリコクリがくるぞ

 などと使います。ムクリは蒙古兵で、コクリは高句麗兵のことだそうで
す。ともに元軍をさしています。壱岐で残酷のかぎりをつくした蒙古兵、
高句麗兵
実際は高麗兵。高句麗の都は平壌で、668年、唐・新羅の連合軍に滅ぼされた。高麗
の都は開城で、936年、新羅・後百済を合わせ、半島を統一。1231年、蒙古軍侵入、江華島に拠って
抗戦するも、1259年降服して属国となる。仏教を厚く保護し、高麗版大蔵経が刊行された。)
のこ
とです。
 元軍襲来の折の話は、壱岐では何世代にもわたって語り伝えられてきま
した。

 泣きやまないとムクリコクリがくるぞ
 親の注意を聞かないとムクリコクリがくる

などと言って、子供をおびやかして静かにさせたり、いうことをきかせた
りする時に使われました。それほどまでに元軍はこわかったのです。元軍
にみつけられた壱岐の人々は皆殺しのめにあったのですから当然のことで
す。
 無慈悲で残酷なことをむごいと言いますが、この言葉も蒙古襲来にまつ
わるもの、と言われてもいます。

 このムクリコクリ人形は壱岐の日高大三
(芦辺町箱崎本村触出身・旧東京美術
卒・旧満州で活躍中に敗戦となり、抑留生活後、壱岐に帰還。一時、現商高で美術教師として勤
務)
が戦後に郷土玩具として考案したものです。

 蒙古兵と高句麗兵を象ったものと言われています。
           
             
  

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