勝本、港町の歴史探訪1
元勝本中学校長 福田 敏
2001.6.28
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1.勝本城址(城山)より勝本湾を望む
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風光明媚、一つの港に漁船800艘は日本一といわれ、港から一斉に
出漁、入漁の様は勇壮である。
また、かっては博多、壱岐、対馬を結ぶ九州郵船の寄港地であった
が、郷ノ浦港、芦辺港にゆずり、今は漁港のみとなっている。
左方、前方には壱岐唯一の島の海水浴場が辰の島に整備され、シカやタ
ヌキが現れて愛嬌をふりまく。また、その向こうには細長く対馬が遠望で
きる。
2.勝本城(武末城・風本城・雨瀬包城)の遠景
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秀吉の朝鮮出兵の折り、壱岐と対馬に唐津名護屋城の兵站基地としての
出城を築いた。天正19年(1591)9月、秀吉の命を受けた、平戸藩主松
浦鎮信は有馬晴信、大村善前、五島純玄の応援を受けて完成させ、本多因
幡守正武が7年間居城した。
3.城址に残る枡形と石垣
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門跡は対馬の方を向いており、往時が偲ばれる。戦いの終了とともに
取り壊されたと伝えられている。
4.河合曾良の墓
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慶安2年(1649)信州上諏訪に生まれ、芭蕉の「奥の細道」に随行、師
芭蕉の死後、宝永7年(1710)幕府巡見使の一員として、
「春にわれ乞食やめても筑紫かな」
の句を残して、3月1日江戸をたった。大阪から海路筑前若松に上陸し
た。一行は福岡城下、肥前呼子を経て5月7日武生水(郷ノ浦)に上陸
後、勝本浦に到着、病を得て宝永7年(1710)5月22日、この地、中藤
家で没したため、城山中腹の中藤家の墓地に埋葬された。享年62歳。
「賢翁宗臣居士」
平成元年5月22日、諏訪市より市長他多数来島され、有名俳人の選に
よる俳句大会など盛大に280年忌の供養が挙行された。
5.諏訪大社の御柱
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平成4年諏訪大社上社本宮に建立された御柱を、平成10年7月5日、
曾良終焉の地に友好都市諏訪市から譲りうけ、城山の中腹に建立された。
側に 「行きゆきてたふれ臥すとも萩の原」
の曾良の句碑が280回忌の記念に建立されている。
6.聖母宮の西門
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西門と南門は豊臣秀吉の朝鮮出兵の折に、加藤清正と鍋島直茂によって
造営寄進されたと伝えられている。
7.馬蹄石ばていせき
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聖母宮の西門の前方には神功皇后の御乗馬の足跡が残る石といわれて
いる。馬蹄石の碑銘は松浦詮公の直筆が刻まれている。
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