三 つ の 島
勝本港は、名烏島(写真上)・若宮島(中央)・辰ノ島(下・砂浜が見える)
の三島によって、防風防波の役目を果たし、自然の良港を形成していま
す。又、産業・観光面でも多大の惠を勝本浦に与えています。
名烏ながらす島
勝本浦の方からは右手方向に見える島です。周囲約2721mです。
東の方は本島側の串山に接しているように見えますが、串山と名烏島
との間は、水深が浅く、船の航行には危険な博多瀬戸によって隔絶され
ています。
名烏島と中央の若宮島の間には、勝本港の入り口の中心に位置している
中瀬戸があります。この瀬戸は漁船の通行も多く、博多・対馬航路が運行
されていた頃は、ここを通行していました。瀬戸の幅は大きく見えます
が、東側は瀬が多く、航行できない欠点があります。
●砲台を築く
第二次世界大戦が激化した、昭和17年頃から、壱岐要塞司令部によっ
て口径15センチ砲の第一、第二砲台が築造されされました。
当時、壱岐中の三年生以上は大村に動員され、残った一、二年生も渡良
の大島や名烏島の砲台築造に奉仕させられました。
名烏島には勝本浦船着場より団平船で送られ、主として大八車でバラス
運搬等の作業に従事しました。砲台は完成しましたが、実用されることも
なく、戦後、占領軍の手によって破壊され、今も当時の名残があるようで
すが、現在は無人島になり、島全体は雑木林に覆われています。
若宮
わかみや島(中央)
名前は、若宮大明神の鎮座地に由来しています。
古書には「つるべ落とし満山松樹繁茂せり」と記されています。
島の東側は中瀬戸で、西側には辰の島との間に油目瀬戸がありますが、
この入り口は岩礁が多く、漁船の通行はほとんどできません。
●遠見番所と烽台
1641年、平戸藩は若宮島と岳の辻に、遠見番所烽台を設けました。
当時の警報連絡手段としては、夜の光と昼間の煙以上のものは無かったの
です。
●植林と放牧場
若宮島の利用開発は明治時代より進められ、松杉檜などの植が行われ
ていました。特に、椿油を搾油するために椿を植え、年に相当数の椿の実
を生産していました。
昭和30年前後より、勝本町も植林に力を注ぎましたが、島の防風林の
役目をしていた松が枯れ、塩害のため他の樹木も育たない状態になりまし
たので、町は畜産振興の意図から牧場を造成して一般農家に放牧に利用で
きるようにしました。
海を渡っての牛の管理は容易でなく、現在は利用者もないようです。
●灯台
勝本港の入り口の若宮島の海上面から104.6mの高さの頂上に若宮灯台
があります。 昔は望楼と呼んでいました。
灯台の歴史を記しますと、
『
・日露戦争に際し、軍の作戦行動上各地に航路標識が必要となり、灯竿
を設けたもので、初点灯は、明治38年(1905)4月で不動赤色であった。
従って、灯火には石油を用いて、光達距離は僅かに6浬であった。名称は
若宮灯竿と称した。明治39年、海軍省より逓信省へ引き継がれる。
・灯台建設用石材砂利全部を無償提供するなど、地元の熱烈な灯台設置運
動によって、大正8年(1919)1月1日点灯(石油灯火をアセチレン瓦斯に
取替え、燭光明4秒暗2秒で、22浬を照らす)、若宮灯竿は若宮灯台と
なる。
・大正13年9月17日、灯台レンズが取り付けられる。
・昭和27年7月1日、若宮無線方位信号所が設置される。
・昭和27年10月14日、自家発電、300ワット電球、1万2000燭光。
・昭和28年9月1日、500ワット電球、2万4000燭光、光達距離24浬。
・昭和44年(1969)3月28日、勝本航路標識事務所を勝本町町の先に設
置、灯台の無人化。
・昭和47年2月1日、船舶気象通報を開始。
』
明治38年から昭和44年に無人化されるまでの60数年間、灯台の一角の
職員住宅で家族共々、一週間も渡海船が通わぬことが数多くあるような厳
しい環境の中での生活が続いていたのです。特に、子弟教育、医療等の問
題は想像を越えるものがあったのではないでしょうか。
「喜びも悲しみも幾年月」が壱岐でも現実に演じられていたのです
●海上自衛隊壱岐警備所
壱岐対馬沿岸海域の安全確保と、日本の防衛に必要な情報の調査収集を
目的として、昭和38年(1963)3月30日、海上自衛隊佐世保地方隊壱岐監
視隊として、当初は21名で駐在しました。その後、昭和42年10月1日、海
上自衛隊壱岐警備所に名称が変更されました。
自衛隊は、特に飲料水に不自由しましたので、町は昭和51年(1976)3月
2日、若宮島に海底水道を敷設して、町水道を供給しました。
隊員も増員され、諸施設も充実して、日夜国境の警備が行われていま
す。又、地域のイベントにも積極的に参加し、町民・郡民との融和にも努
められています。
辰ノ島
かって、壱岐に修学旅行に来て、壱岐の中学校と交流会を行った神戸
の中学生の感想文やアンケート結果が送って来ました。
その中から、壱岐で強く印象に残っていることとして、壱岐の自然、中
でも「コバルトブルーの海の色」と「海の透明さ」ということが読み取
れました。特に、辰ノ島は自然の中ではトップでした。
辰ノ島は、東西の二つの島があり、干潮時に陸続きになります。東の方
の島は約70,000u、西の島は約36,000uあります。
●海水浴場
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広く弓状の遠浅で風波が穏やかで安全な海水浴場といわれています。近
年、設備も整備されて、夏には多くの人が訪れています。
最初の海水場開きは、昭和10年(1935)だそうです。
夏の間は、勝本港と渡海船で結ばれています。
●蛇ヶ谷
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高さ50mに及ぶ侵食蛇ヶ谷断崖があります。勝本港周辺でよく見られる
「勝本層」の垂直節理が波によって広がったものです。上から下を見て、
ほとんどの人が足がすくみ、暫くは体の震いが止まらないと言います。
島の西海岸には貫通して海水の往来する穴もあり、このような浸食岸が
大小多く見られます。
●海浜植物群落
辰ノ島の海浜植物は有名で種類か多く、特に砂地には特有の植物の群落
が発達しています。
中でも、ハイビャクシンは数ヵ所に大型の群落があります。海浜植物群
落は昭和41年(1966)に国の天然記念物に指定されました。
●イルカ供養碑
イルカの被害が問題になりだした昭和30年頃から、勝本漁協では種々
対策を講じましたが、なかなか有効な方策が見つかりませんでした。
昭和50年、和歌山県の先進地で実績をあげている追い込み技術を調査
研究し、翌51年、大量追い込みに成功し、長い間の捕獲の夢が現実のも
のとなりました。
52年度は、4回で924頭追い込みました。
53年2月22日、1010頭のイルカを辰ノ島に追い込みましたが、
情報化時代になり、その処理作業の様子が報道され、世界の動物愛護団体
から抗議されました。
そのような中、アメリカの36歳の青年ケイトが夜ゴムボートに乗って
辰ノ島に渡り、イルカの囲み網を破り、約300頭余を逃がし、裁判沙汰
になりました。
漁民の生活を保障する立場を無視してのイルカとの共存を唱える動物愛
護運動は、到底、納得させられるものではないと思います。
勝本の漁協では、辰ノ島にイルカの供養碑を建設し、供養が行われてい
ます。
近年は、イルカの回遊も少なくなり、漁場からの追い込みを自粛し、追
い払うことにしているようです。
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勝本、港町の歴史探訪2 串山・天ケ原付近
勝本町友好都市 俳人曾良