串   天 ケ 原   

  
串山(半島)の空中写真です。昔は、櫛山とも言われていました。

    
          
 串山(半島)と塩谷湾

勝本層
    
      
串山入口に広く見られる勝本層(横臥摺層)

 壱岐の地層に勝本層があります。勝本層は二千数百万年前頃堆積して
出来た地層とされ、これが壱岐島の基盤となっていて、砂岩、頁岩およ
びその互層からできています。
 猿岩のある黒崎―筒城を結ぶ北西―南東線によく見られ、勝本町では
勝本港周辺、名烏島、若宮島、辰ノ島北部海岸一帯、湯ノ本湾沿岸にも
多く露出しており、美しい又険しい海食崖を形成しています。

見る目浦・串山・天ケ原
櫛山
 「
壱岐名勝図誌」に、「此山国の北極なり。櫛に似たる故に名とす
と風土記にしるせれと、今みるに櫛に似たるともいひかたし。案るに奇
山の心ならんか。そハむかし鬼の住みし山なりといふ説より、くしき意
にて然いひしにハあらさるか。」と載っています。
天ケ原
 「壱岐名勝図誌」に、「牧内より櫛山に往来の通路なりとして、この
東西に海ありて、東は滄海、西は曲江、南は牧内の馬込に限り、北は
櫛山に限り、………この原に遊びて四方を眺望するに、滄海びょうびょ
う秋天晴明にして、煙霧なき時は筑前の地方見え、南は坂口坂、赤岩、
寒水、西は曲江甚だ深く釣する小舟、秋の木の葉を散らしたる心地して
北は櫛山くすしくも松樹蒼蒼として、立つつき最も佳景の地なり。」と
載っています。
 東側小高い斜面は、樹木はあまり育たない野原であり、北東は前述の
様に滄海を見渡せるところから、
天ケ原という呼称は、自然に出来たも
のではないかと言われています。
 近年まで、干潮の時は浜伝いに簡単に通れたそうですが、満潮の時は
山裾の瀬や石を用心深く渡らねばならなかったそうです。
 しかし、「
眺める海は広く開け、櫛山の松は蒼蒼として佳景の地で
あり、牛が頭も上げずに青草を食む牧歌的な風情のあるところだっ
」ということです。
見る目浦(海めの浦)の防と烽 
 串山は、勝本港の北東端にあり、三つの島と共に勝本港の防風防波の
役割を果たしています。また、半島状になっているために東の方へ入江
が深く入り込み、良港(塩谷湾)つくり、多くの漁船が繋留されていま
す。
 「
壱岐名勝図誌」に、「奇山の北小櫛山の南西向の浦なり。……世に
たくひすくなき佳景の地なり。故に
見る目の浦の意にや。……歌書に
松目浦とかけり。……」のように載っています。
 壱岐郷土誌には、「弘仁七年(816)、壱岐に二関と十四の火立場を置
く。」と記しています。即ち、通行の点検をする
関所と沿岸で緩急に応
じて
烽火を焚く機関です。この二つが、ここ見る目浦(櫛山)にあった
ようです。
 串山から多くの発掘品があること、又、見る目浦に関する十一首の歌が
壱岐名勝図誌」に詠まれていることから考えて、勝本浦の出現前は、
この串山一帯が中心であったと考えられます。
天ケ原遺跡と見る目浦遺跡
・昭和36年(1961)、
天ケ原(串山半島の頚部にあたる)の護岸工事の際、波打
ち際から弥生時代青銅器の
中広銅鉾三本が出土しました。(内、1本は芦辺町
立那賀中学校に発掘者の業者より寄贈され、他の2本は壱岐郷土館と勝本町教育委員会に保管され
ています。これは祭器として海に関係深い串山の人達が海上安全祈願の為に神に捧げたものと思わ
れます。)
この付近から、箱式石棺も発掘されました。
・昭和55年に勝本町は、串山半島の西南部にある
見る目浦遺跡の発掘調査
を九州大学考古学教室に依頼しました。その結果、縄文中期土器片、弥生
式土器片、陶質土器片、把手
(アワビ起し)、土錘、鯨骨製品が出土し、海底
には数多くのアワビ貝の殻がありました。
・又、昭和63年(1988)には再度、見る目浦の発掘がなされ、いろいろな
発掘品と共に、
亀トが発見され、新たな注目を集めました。
 ト骨は壱岐でも鹿猪のものが十数点発見されていますが、亀トの発掘は
これが初めてでした。ト骨は当時鹿猪の骨や亀の甲羅を焼いて、そのひび
割れによって占いをする道具にしていました。
 天ケ原・串山の弥生時代の遺跡の出土品の特色は、カラカミ遺跡と同じ
く、漁具が多く、農具が少ないということです。
 漁具としては、鯨骨品のアワビ起し、骨製のヤスリ、銛、鉄銛、鉄製の
釣針、石錘、土錘等です。
 串山のアワビ起しの把手等の数の多いことは、炉跡の存在が認められる
ところから、アワビの加工生産の跡ではないかと見られています。

 ここからの
出土品の「コシキ(湯気を通す穴があり、蒸し器のセイロー) 銅鉾 
カメ 高杯
たかつき 土師器はじき」が古民家園に展示してあります。

天ケ原の開発
   
        
天ケ原と串山
防潮堤築堤
 昭和35年(1960)から36年にかけて、玄海の荒波の侵食から護るた
めに、226mの
防潮堤が築堤された時に、道路ができて往来に便利にな
りました。
(昭和36年の2月22日、天ケ原先端の防潮堤築堤の折に、中広形銅鉾3本が発
掘されたのです。)
 
天ケ原は串山への接点の窪地にあり、東北風をまともに受けるので、こ
の地に集落があったとは考えにくいのですが、近くの串山側に
見る目浦
あり、
見る目関があったとされていますので、古代に生活集団が近くに存
在していたことは考えられます。
新開発集落
 天ケ原の
団地の造成は、昭和47年(1972)におこなわれました。ここ
に、住宅、漁民アパート、道路、総合グラウンド、児童公園、緑地、造船
所、漁船上架施設などの用地として利用が始まり、立派な
新開地が出来て
います。

串山の開発
観光地としての開発

        

 天ケ原に続いて、串山への開発が進められるようになりました。
 昭和52年(1977)串山入口より串山突端まで、海岸沿いに延長106
5m幅員4mの道路が造成され、その最終地点に
海水浴場が設けられまし
た。
 54年には海水浴場に休憩所及び便所を造り、整備が進められました。
 55年には海水浴場の山側を利用して、あずまや、運動場、
キャンプ
等をつくり、公園化されました。なお、通称イルカ池には、イルカパー
クが設けられ、常時イルカが飼育され、観光客の目を楽しませています。
 平成3年
(1991)、海水浴場より山頂への観光道路がつくられ、山上
も公園化
されています。

佳景の地・串山山頂
 「
風土記」に「世にたくひすくなき佳景の地なり」と、半島の形をし
て陸続きで壱岐最北端の、標高72mの串山の山頂からの眺望を記して
います。
 道路
(天ケ原のグラウンド側からも登れます。)が山頂部まで設けられ、容易に
登ることが出来ます。しかし、
 現在、山全体、樹木が繁茂していて、
景勝を眺めることは困難です。
 山頂部に
串山古墳があります。(山の上に古墳があるのは、珍しいということで
す。)

根島を開放
 
地元の漁師さんだけしか入れなかった磯場が、漁師さん・漁協の協力
で、2001年から一般の人達に開放されました。期間は、4月5日から
9月20日までです。
 根島は串山半島の先端部にあり、イルカパークや串山海水浴場(キャン
プ)近くです。
 運営主体は勝本観光協会で、勝本町・勝本漁協・勝本商工会が後援して
います。   問い合わせ先(観光協会)⇒09204-2-1156
 
   
開催スケジュール・参加費用・その他の事項については、
   ホームページを検索してください。⇒



       
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