勝本、港町の歴史探訪2
元勝本中学校長 福田 敏
2001.6.28
8.朝鮮通信使迎接所跡
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平戸藩が往復ともに勝本浦で接待した。藩主は壱岐城代に命じて迎接所
を龍宮寺(神皇寺)をあてたが、後に勝本浦正村一帯を造成し、宿舎を新
設した。
当時の建物はなく、神皇寺本堂跡に阿弥陀堂が建てられている。その前
の海岸には「神皇寺渡頭」と呼ばれる石段があったが、埋めたてられて今
は見られない。
9.対馬屋敷の塀
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浦の鹿の下に対馬藩宗氏が建てた屋敷である。対馬藩が連絡・事務・休
憩所として使った所で、高さ2m、山の崖から海岸までの長さ23m、両
起点までの長さ50mの三方を高塀で囲んであった。広さは1180u。
現在は9軒の民家が道路に沿って軒を並べている。屋敷跡にあった手洗
鉢は、勝本中運動場下の金光教会前に残っている。
元和元年(1681)、屋敷番が64人常駐していたという。
永取家と熊本家の間に現存。
10.泉屋商事の玄関
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当主、篠崎 勝 氏
(勝本町文化財調査委員会委員、
国特別史跡原の辻遺跡保存委員会委員)
「私設 歴史資料館」の土蔵は、この裏にある。
11.私設 江戸・明治・大正・昭和歴史資料館
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泉屋商事当主、篠崎勝氏は伝来の家宝に加えて、趣味として広範に亘っ
て集めた歴史資料を裏の土蔵に展示されている。
見学者は、前もって依頼すれば見せてもらえる。
рO9204−2−0032
(山口註
篠崎 勝氏 平成元年 勝本町文化財調査委員長
功績
1.「壱岐風土記の丘」歴史公園建設
2. 笹塚古墳発掘調査/馬具出土・他町内重要古墳調査
3. 勝本城址の国指定昇格
4. 丸尾遺跡の発見/弥生時代
5. 北部三県姉妹遺跡締結/弥生時代
6. 双六古墳発掘調査
7. 勝本町内趣味の散歩の会代表
8. 泉屋コレクションの無料公開
壱岐初の個人コレクションの公開となる
平成14年11月4日逝去 享年78歳)
12.琴平町の歴史について
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篠崎勝氏は自分が住んでいる琴平町の変遷と、その由来を是非後世に
伝えたいという思いから、自費で説明板を設置されている。
「明治、大正、昭和の時代と、何時しか遠く去りましたが、かがり屋
町の余韻は今でも懐かしく、往時を偲ぶに充分です」と結んでおられ
る。
山口註・かがりの漢字は、パソコンで出てきませんでした。字典には、「夜の警護などのために
焚かれるコウ火(カガリ火)」などのように使われ、たけかんむりの下に、構や溝のきへんや
さんずいを除いた部分と組み合せてつくられている文字で、「(漢)コウ(呉)ク」と載ってい
ます。 字源には、「形声。火を覆い衣を薫らす伏籠、故に竹冠」とあり、「フセゴ、カゴ、ツヅ
ラ、負い籠、カガリ」と補足してあります。
13.曾良終焉の地、中藤家
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病に倒れた曾良は、海産物問屋中藤家で静養していたが、宝永7年
(1710)5月22日、62歳で没した。
14.鯨組、土肥家御茶屋屋敷の「アホウ塀」
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土肥家四代八右衛門が明和4年(1667)に新築した別邸、御茶屋屋敷の
塀である。高さ7.08m、長さ90m、石材は串山半島の口細浦から船で
運ばれ、完成まで3年を要したという。
あまりにも、デカ大きいので「アホウ塀」と呼ばれたのだろうか。
甕の中に手を突っ込んで掴まれるだけの銭が、石工の一日の日当だった
とか、浜の真砂はなくなっても、土肥家のお金はなくならないだろうと言
われていたという。とかく、当時の土肥家の財力が偲ばれる遺産である。
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串山・天ケ原 勝本町友好都市 俳人曾良